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病みの中にも、美味いのと不味いのはある。
昨日一昨日と、なかなか詩が書けなかった。
一昨日は忙しかったせい。昨日はまたゲームに溶かしてしまったせい。詩を書くにはどうしても詩情を感じる心の余裕が必要だが、体の疲れとゲームのせいで頭も心もすっかり疲れきっていて、何を書こうにも自責思考ばかりが頭を占拠していた。
以前の自分だったら『病んだ時こそ味わい深いものが書けるチャンス』と信じていたから、昨日みたいな小さなマイナス感情すらもずるずると引きずって、なんとかその病みに向き合おうとしていたと思う。
しかし最近思うのは、マイナス感情の中にも質の善し悪しがあるのではないかということ。それは人生にとって有意義かどうかといった耳障りの悪い話ではなく、もっとこう純粋な、感覚として「美味しい病み」と「不味い病み」があるような気がする。(先に例えを出してしまうと、侘び寂びは美味しくて、怒りは不味い、みたいな。)
このことに気づいてから、僕の中のブレーキがひとつ外れた感覚がある。それについて詳しく話していこうかと思う。
長らく僕は世俗的なものに対して抵抗感がある。大衆文学よりは純文学を、マジョリティよりはマイノリティを、ポジティブなテーマよりはネガティブなテーマを好んできた。まあ天邪鬼みたいなものだ。
しかしこの表現は的確ではない。たしかに今でも結果的に世俗的なものへの抵抗感はあるのだが、そのもっと根底には別の心理が潜んでいるように最近思う。というのも、どうやら僕は「世俗的だから抵抗感がある」というよりは、「質が悪いと感じるから抵抗感がある」だけのようなのだ。
本当に物によるのだが、どうも世俗的なものは、それだけで粗悪な印象を受けるものが多い傾向にある。没個性的なものや、下心が見え透いているもの、流行りに乗っかっただけのものなどなど。反対に純文学や現代美術を筆頭に、あらゆる柵から抜け出そうとする芸術的営みには心くすぐられるものが多い。人間臭い文章や魂の奥から削り出されている叫びには、何物にも代えがたい魅力を感じている。
こんな好みをしているからこそ、最近は特に、タイトルからして大衆ウケや流行りの匂いを感じ取った瞬間にセンサーが働いて遠ざけてしまうようになった。(SEO対策や長い自己紹介文、量産型の文章にはすっかりうんざりしている。)弱性の毒に晒され続けた結果、「世俗的=嫌い」「大衆文学=嫌い」「ポジティブ=嫌い」となってしまっていたようだ。
しかし結局僕が重要視しているのは「質の善し悪し」であって、仮に内容が太陽のような明るいものであっても、あるいは大衆に広く受け入れられているものであっても、その質がいいと感じられるのであれば、僕は美味しくいただくことができる。
考えてみれば当たり前のことだ。
さてそうなると、『病んでいる時こそ味わい深いものが書ける』という文言は正しくないことになる。
先ほどから述べているように、病んだままに書かれたものには魂の叫びのような好みのものも多いが、仮にどんなに病んでいても、それが質の悪い不味い感情だとしたら、そんな感情にいくら向き合ったところで良いものが生まれるとは到底思えない。アカペラで心に刺さらないものをいくら編曲したとしても良い曲に化けることはあまりないのだ。
その不味い感情が僕の場合どういうものかというと、例えば昨日のゲーム中毒の末の自責の念もそうだし、先ほどちらっと例に挙げた怒りや憎しみなんかもそうだ。いや、中にはそれらの感情の奥に味わい深い世界の広がりを見ることのできる人も居るのかもしれないが、少なくとも僕は昨日の病み感情の奥に詩的広がりを感じ得なかった。というか何より不味かった。
そんな時は、生真面目にその感情に向き合うよりも、さっさと洗い流して別の感情に向き合った方が好ましい。
と、ここまで書いてきたことは気づいてしまえばとても当たり前のことに思われるかもしれない。これを難しくしていたのは、ひとつには僕の特性が関わっている。
僕が文章を書く最も大きな理由の一つに、「この想いを残さなくてはだめだ」と思っていることが挙げられる。忘れることは怖い。しかし忘れていく。だけど、それでも出来る限りは残しておきたい。それも誰かに伝わる形で残したい。長い年月煮詰まってきた感情、考え方、価値観などを納得できる形で言葉として残さない限り、僕は次の一歩に進めない気がしているのだ。そう考えているから、岩の上から一歩も動かずに、目に映ったもの全てを書き残そうとしてきた。それが自分の見てきた森を遺すということ。それが成されるまで、冷たい岩の上の悪夢は終わらない。そう思っていた。将来的にはこの考え方も変わっていくだろうけど、今のところこれが目下の課題になっている。
しかし、目に映ったものの中にも、美味いものと不味いものがあると気づいたらどうか。切り捨てるのが大変苦手な僕でも流石に不味いと分かっているものなら切り捨てられそうだ。物はなかなか捨てられないけど、生ごみは捨てられるような感じで。
そういう点で今回の気づきは大きかった。
心に絡みついていたブレーキをまたひとつ外せたような気がしている。