消費されない仕事人生を送っていきたい
仕事をしていると「あ、今、消費されたな〜」と思うことがある。
たとえば、
・仕事を押し付けられてしまった
・感謝の言葉を一言も貰えなかった
・愚痴の捌け口にされてしまった
・まるで空気のように扱われてしまった
など、相手に都合よく使われてしまう経験のことを、わたしは「消費」と呼んでいる。
「消費される」ということは、自分の中にある何かが消耗するということ。
本来であれば、感謝・笑顔などのポジティブな感情を向けられることで、満足感のある仕事をすることができるはず。
だけれど消費されてしまうと、満足感どころか、ただ労力を使ったり、嫌な気持ちになったりするだけで、身をすり減らしてしまうのだ。
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ある夏の日。まだ太陽が低い位置で地上を照らす時間。モワモワとした空気を纏った屋上テラスで、わたしは人を待っていた。
昼間はBBQでも開催されるのだろう。ところどころ剥げの見える錆びれたテーブルが20席ほど、夏の光を受けて熱を上げていた。
少し奥まで歩いていくと、横幅10mほどのミニステージが見えてきた。きっとここも昼間になると、太陽にも負けないキラキラとした演者が入れ代わり立ち代わり、今日という日を盛り上げていくのだろう。
くるりと空間を一周して、再びもといたBBQエリアに戻ってくる。錆びれた一席に少し座ってみては、立ち上がり、そわそわと辺りを見渡して、また意味もなく空間をくるりと一周。
わたしは人を待っているーーが、本当に人が来るのか定かではない。なぜって、わたしは仕事の集合時間と集合場所を知らないからだ。
今日は、期間限定で開催される飲食店の取材。取材といっても、メインは別で動く映像部隊。わたしは映像部隊の邪魔にならないようコンテンツ用の写真を撮り、インタビュー内容を記録し、合間で飲食店のスタッフの方々からお話を聞いて、それらをいい感じに1つの記事として仕上げることがミッション。
どんな関わり方であっても、コンテンツにかける気持ちは変わらないし、1人でも多くの人に飲食店の魅力が届くように、と取材時点から思いは強く募っていく。だけれど、そんな思いを曇らせていく不安だけは、どうにかできないものだろうか。
昨夜送った「〇時に屋上テラス集合の認識で大丈夫でしょうか?」というLINEは、既読状態のまま、返事を得られず夜を越えた。とりあえず事前に共有されていたスケジュール表から、予測される集合時間・場所に来てみたはいいものの、もし違っていたら大変だ。遅刻で登場なんて、こちらに落ち度はないにしろ、気持ちの良いものではない。
そわそわ。そわそわ。
ジリジリと肌を焼く太陽だけが、わたしの側にいてくれた。
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それから30分ほど経って、わたしはようやく肩を撫で下ろした。映像部隊の方が来たのだ。ぃぃ〜っよぉぉかったあぁぁぁ〜っと這いずるような叫び声を心で上げながら、あくまでクールに「おはようございます」なんて声をかける。そして、その後ろから、既読状態のままお返事をしてくれなかったディレクターさんがやってきた。
「おはようございます」と挨拶を交わして、沈黙。あれ、LINEのこと覚えてないのかな。まあ無事、合流できたから構わないのだけれど。既読は肯定の合図だったのかもしれないし。
取材は順調に進んでいった。映像部隊が撮影するなか、後ろの方でこそっとデジカメのシャッターを切っていると音声担当の女の子が不思議そうにわたしを見てきた。
「ライターさんって、自分で写真撮るんですか?」
「そうなんです。カメラなんて素人だからシャッター切ることしかできないけれど」
「へえ〜大変ですね」
問われて、すかさず返したけれど、前職でクリエイティブディレクターをしていた頃は、1つのコンテンツを生み出すために「営業」「ディレクター」「ライター」「カメラマン」「デザイナー」「校正校閲」と、複数人が手を合わせていた。
それが今や、営業は行なわいものの、企画を考案し、取材・執筆・編集をし、写真を撮影して、デザインまで制作している。全て手掛けられる面白さを感じる反面、俗に言う"やりがい搾取"の典型例だなと感じてしまう日も多い(大きな声で言えないが、あまり報酬が……)。
こんな気持ちで働くって、良くないな……。
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「おつかれさまでした」
取材は無事、終了。
一足先に現場を出ると、今朝は人気のなかったBBQゾーンが一気に盛り上がりをみせていた。楽しそうに笑い合う人々を横目に、長いエスカレーターを降りて手近なカフェを探す。
基本、ディレクターさんが依頼する取材案件の納期は「なるはや」だ。「できれば今日中に」という言葉を何の悪びれもなく言ってくる。ちなみに「できれば」という言葉に意味はない。
そのため取材後は、デジカメのデータをスマホに落としつつ、作業ができるカフェを探すのが毎度のコース。
STARBUCKSが安定なのだけれど、今日はランチも兼ねて、少しオシャレなカフェに入ってみる。これから納期と戦うと思うと、少しでも美味しいものと居心地の良い空間でじぶんのモチベーションを高めておきたいのだ。
まずはスマホに落としたデジカメのデータを確認しながら、レタッチ作業をしていく。今日は300枚も撮っていたらしい。
素人はとにかくシャッターを切る回数が大事なのだ。とくに動いたり、喋っていたりする人を撮るのは大変だ。目瞑りを気にしないといけないし、表情もかなり大事。ブレてしまうことも多くて、数回のシャッターでは「使えない写真」しか撮れない可能性だってある。
使える写真と、使えない写真を選定しながら1枚ずつレタッチをくわえる。全てチェックし終わる頃には、コールドブリューが注がれたガラスのマグがしっとりと汗をかいていた。
ようやっと、ライティングへ。事前にざっくりとした構成は作成していたので、それをベースに取材内容を軸に改めて構成を確定していく。
構成を確定したら、挿し込む写真を選びつつ文章を書き進める。
文章があらかた仕上がったら、今度はデザインだ。アイキャッチとなる画像を作成し、文章の合間に挟む写真も一部デザインをくわえていく……。
最後に、上から下まで推敲して、情報の精度を確認したら、完了。
メールフォルダを開いて、制作意図と申し送り事項を丁寧に記載して、送信。
ドッと疲れが肩に乗りかかる。おそらく今日の仕事は、時給に換算したら1,000円程度におさまってしまうだろう。仕事は楽しい。けれど、自分を安請け合いする働き方は良くない。楽しい分、こうやってモヤモヤが募ってしまうから。
それでも誰かに感謝されたり、喜んでもらえたりしたら、「やってよかった」なんて、モヤモヤも忘れてステップを踏んでしまうのだろうけど。
こんな働き方は、やっぱり良くないんだろうな。
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翌日になると、ディレクターさんから初稿に対する返事があった。
「お疲れ様です!ここの写真ですが、もう少し◯◯さんの表情が良い写真に差し替えをお願いします。できれば◯◯さんが中央にいるカットで。それから、◯◯さんのコメント録音されていますか?ここの部分に入れてください」
写真、写真かぁ。
ハァ、とひとつため息を落とす。
わたしは、カメラマンじゃないんだけどな。
今でさえ、変な表情をしている写真を挿し込んでいるわけではない。たしかに、もう少し笑顔だとより良いけれど、キリッとした雰囲気で決して表に出せないような表情ではないのだ。素人ながらも上手に撮れた一枚だと言えるはず。画角だって悪くないと思う。
それに事実、わたしは撮影費用をもらっていない。
別の取材で一度写真を撮ってみたら、いつの間にか毎回撮影も行う流れになってしまい、最近は完全にボランティアで対応している。きちんと費用の交渉をできない自分が悪いとはいえ、わたし的には善意で取り組んでいる仕事だ。
感謝の言葉も、写真・デザインに対する感想もなく、ただ修正依頼だけをぶつけられると、善意の心が途端にしょぼんと萎んでしまう……。
それに、「〇〇さんのコメントを入れてください」という件に関しては、事前に共有を受けていない……。録音はおろか、コメントすら知らない状況だ。取材前に送った記事の構成案のメールには、何の反応もしてくれなかったのに。
当日に作成する記事の流れを確認した際には、「 それでいいですー!読者が楽しくなるような感じで!」と完全にお任せしていてくれたはずなのに。
昨日の疲れが再びドドッと、肩に乗っかってくる気がした。
「申し訳ありません。〇〇さんの表情に関してですが、300枚以上撮影したなかで1番良い表情の写真を選定しております。動いたりお話されていたりする方の撮影は難しく、高度な写真を求められる場合は、別途プロのカメラマンにご依頼された方が良いかもしれません。また〇〇さんのコメントに関しては事前に聞いておりませんでしたので、録音がありません。もし映像部隊の方で撮られたデータがあるようでしたら、そちら共有いただければ追加することは可能です!」
期待に応えられず残念だけれど、ないものは、ない。素直にお返事をするも、それから「Re;」をつけたメールが返ってくることはなかった。
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数日経って、ふとメディアを覗いてみると、この間の飲食店取材の記事がアップされていた。写真はそのまま、〇〇さんのコメントの追記もない、わたしが初稿で送った内容ままで掲載されていた。
その瞬間、ストンと胸の内に言葉が落ちてきた。
あ、わたしって、消費されたんだ。
感謝の言葉も、記事の感想もなく、ただ使われただけ。取材は良かったのか、記事の仕上がりは満足がいくものだったのか、それすらも分からないまま、仕事がひとつ終わっていった。
わたしは仕事をしてくれる駒のひとつなのだろうか。仕事という目的を果たすことが重要で、駒が傷つこうが、擦り減ろうが関係はない。動かなくなれば別の駒を探すだけ。使い勝手の良い駒にされているような気がした。
仕事に対して適正な報酬を支払うこと、そして報酬に見合った成果を生み出すことは、仕事を依頼する側・される側の双方が成すべきこと。だけれど、わたしたちは「感情」で仕事をしている。少なくとも、わたしはそうだ。
わたしは「お金」でつながる仕事をしたいとは思わない。どれだけ良い報酬を差し出されても、価値観の合わない仕事はお断りしている。どちらか一方が少しでも「搾取する」行動をしてしまうと、やりがいのある仕事が途端に苦しい仕事に変わってしまうから。
苦しむくらいなら、仕事はやめる。身をすり減らす仕事は、いつしか自分の心も削ってしまうから。
消費された、と思ったら緩やかにその場から去る。できるかぎり円満に。さらりと風を受けて舞う木の葉のように、ゆっくりと音もなく別の地へ着地する。
次の地では誰かに使われるのではなく、ともに手を取り合って、互いのパワーがハブとなって、人々の喜びを生み出す仕事ができますように。
そう、願いながら。