走ることについて語るときに僕の語ること

『走ることについて語るときに僕の語ること』と『職業としての小説家』は、僕(誠心)が生きる上で、また仕事をする上でのバイブルのような位置づけで、走ること~は今回で5回目ぐらい、職業としての~は先日3回目を読み終えたと記憶している。

刊行順から言っても前者は「書きためていたノートから」というイメージで(それがまたいいのだが)後者はそれをもう少しカチっと固めていったもの、という感じがする。

今回は、『走ることについて語るときに僕の語ること』について。

序盤で「具体的に言おう」と、つっこんだメモワール的な内容が全開だったり、第4章では普段の仕事っぷりがありありと見えたり(これは珍しい)、他にも「重要な人間関係は…」「プロセスを人格の一部として取り込む」「『十全に』生きる」「まさに翻訳中の『グレート・ギャツビー』に関する印象」などなど、うーんこれは1年に1回は読み直す価値がありそうだな…とたくさんの箇所をチェックした。「職業としての~」の方が、そのタイトルや表紙を含めてインパクトが強いかもしれないけれど、また優劣はつけるものではないけれど、「走ること~」の方が総合点において僕は好きだ。

その他、すばらしい文章がたくさんある。メモワールと思いきや、小説のように、また小説以上にすばらしい景色がたくさんある。思わずそばにいる妻に「本当に村上春樹は文章がていねい!愛を感じる!すばらしい!」ともらしてしまったぐらいに。

第3章の真夏のアテネの公式マラソンコース(の逆走)、第5章の秋のボストン、そして圧巻は第6章のサロマ湖100kmウルトラマラソン!(1996年)、ウルトラマラソンでは後半あたりでいわゆる壁抜け(「向こう側へ移行」とある)的なことや、「宗教的な趣き」を感じたそう。とまぁ、この100kmマラソン記は本当に感動ものです。

春樹さんの生き方って、暮らし方って、大自然の一部というか大地球の一部であり、大歴史の中にいるという感じがするんですよね。

これはある種の達観であり、もしくは諦観であり、そこに身をおいているからこそ、世界中とつながっていくのだと思いました。えらい話がでかくなったけれど、本当にそう思う。そして何より、仕事に対して、生きることに対して、誠実で公正で親切だ。

涼しくなったらもう少し距離を伸ばして僕も走ろう。僕はフル・マラソンには出場しないけれど、『走ることについて語るときに僕の語ること』はこれからも年に1回ほどは読み返していこう。

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