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「好き」が行方不明だった頃の話
小学校高学年の頃のことです。
私は「いい子」であろうとしました。
そうなったのは何時からだったのか、忘却の彼方の記憶ですが、少なくとも小学1年生の頃には「いい子であろう」とする脅迫的な観念が私を追いかけていました。大人たち(特に親と教師)の満足する「正解」を探して、模範的な解答を出すように努めました。
自分の好きなものよりも親の期待するものを欲しがり、先生から「お願い」されて嫌いなクラスメイトとも仲良くしました。期待の道に沿うように、その道を決して踏み外さないように、慎重に慎重に歩きました。
そうこうしているうちに、自分が何を好きで、何を嫌いなのか、わからなくなってしまいました。「好き」の行方不明です。
「今日の夕飯は何を食べたいか」と訊かれても、何の感情も湧きません。母の期待する解答を推定して、たとえば「ハンバーグ」と応えてみます。母が嫌な顔をしたり溜息をつきながら冷蔵庫を開け閉めしたら、私は即座に「あ、やっぱりシチューとか、カレーがいいかも。」など答えてみます。正解したら質問から逃れられます。そのうち料理の名前も思い浮かばなくなって、「分からない」「なんでもいい」と答えることが増えました。
裕福でなかった幼少時代と変わって、父が独立してからは、その収入の多くを私と妹の「習い事」や「教育」に投資してくれたのだと思います。母は必死の形相でした。音楽のひとつでもできないと困るといってピアノを始め、英語ができないと困るといって英会話教室に通わせ、絵が描けなきゃ困るといって絵画教室に、病弱な身体が強くなるようにと水泳教室に私を通わせました。何が困るのかよく分かりませんが、私に「ふつう」より出来ないことがあると、積極的に習い事やら何やらに連れて行きました。
ピアノは好きだったような気がしたけれど、次回のレッスンまでに練習しなければいけない「ノルマ」があって、それができるまでピアノの部屋に外側から鍵をかけられました。それはひどく苦痛な時間でした。
母が私の気持ちを聞くときは誘導尋問に近く、私は模範解答を続けました。当時を思い出すと、「そうでしょう、母親である私があなたのことをいちばんよくわかっているのよ」という気持ち悪い笑顔が脳裏に浮かびます。
齢十かそこらの私はもう何も分からず、ただ毎日のノルマをこなしました。
自分は何が好きなのか、何が嫌いなのか、すっかり分からなくなっていました。
縋るような思いで自分の「好き」を探しました。
ある日、合理的な理由もないのに習い事を休んで友達と遊びに行ったときのことを鮮明に憶えています。T君とM君は快く私を迎え入れてくれました。小学校の周りで走り回ったり、缶蹴りをしたり、他愛のない話をして笑い合いました。200円を握りしめて駄菓子屋に行って、ビッグカツとラムネと、10円ガムを買いました。
ブランコに乗って話をしているとき、
見上げた青空が綺麗で、涙が出ました。
自分は美しいものが好きだ、と。
やっとそれだけ見つけました。
それが本当に嬉しくて、「暗くなる前に帰る」という母との約束を破って、M君が帰った後も自動販売機の灯りの中で、T君と会話を続けました。
鬼の形相の母に腕を掴まれて家に帰ることになろうとも、私にとってかけがえのない時間が、そこにありました。
美しいものが好き。では自分は何を美しく感じるのかということを手掛かりに、私は行方不明になった「好き」を再び集め始めました。
感情を否定して理性だけで生きていこうとすると、心に亀裂が生じます。私は私の「好き」を二度と見失うことはないでしょう。
noteにはたくさんの「スキ」が溢れています。
私は私の感情に耳を澄ませて、今日も「好き」を探します。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の感情が誰からも否定されず伸びやかに舞い、世界に「スキ」が溢れますように。
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