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優しい嘘は許されるのでしょうか。

「先生、私はあとどれくらい生きられるかな?」進行期のがん患者さんから問われて、言葉につまる質問です。

 先日、職場の若手医師から「生命予後(期待される寿命の長さ)を聞かれたとき、どう答えたらよいか分からない」と相談されました。

 統計学的な事実から導かれる2年あるいは5年生存率だとか、臨床試験の結果としての全生存期間の中央値だとか、無増悪生存期間の中央値だとか、そういう客観的データはあります。しかし、当事者が聞きたいのはそんな無味乾燥なデータの話ではなくて、「私は」どれくらい生きられるのかという切迫した問題です。

 かつてキルケゴールが絶望を「死に至る病」と表現したように、深い哀しみと絶望は、寿命よりも早く人の心を死に至らしめることがあります。最期を覚悟しはじめた人と触れ合うとき、発する言葉は極めて慎重に選ばなければなりません。

 実際、余命の見極めというのは容易なことではありません。同じ年齢、同じ疾患、同じステージでも個人差が大き過ぎるからです。知識としての統計学的事実と医師としての経験の蓄積、そして目の前の患者さんに真摯に向き合うことによって初めて、ぼんやりと見えてくるようなものなのだと思います。そうして目安として1年以上大丈夫そうだとか、1年は厳しいとか、半年どうかとか、2, 3ヶ月以内だとか、1ヶ月もたないとか、1週間以内とか、24時間以内とか、そういうことが分かってきます。勿論それを覆すような「奇跡」にも稀に遭遇するのですが、それはまた別の機会に。

 さて、冒頭の質問に戻ります。

「私はあとどれくらい生きられるかな?」

 手持ちの事実と予測される未来を、そのまま伝えればよいのでしょうか。

 いいえ。質問の真の意図に気付く必要があります。

 ある人は、死への恐怖から、長く生きられると言って欲しいという希望を抱いていました。

 ある人は、自分の企業を後継者に引き継ぐ準備が必要だから、できるだけ正確に命の長さを知りたいという合理的な理由からでした。

 ある人は、自分は本当はそんなこと知りたくないのに、同席していた家族がつい聞きたくなって、という構図でした。

 その質問の背景は千差万別です。

 私はそういう質問をされたとき、一拍おいてジッと相手をみつめ、まず「知りたいですか?」と問いかけるようにしています。すると緊張が走ります。もしかしてすごく悪いんじゃあないか、あと〇〇ヶ月ですって明言されるんじゃあないか、しまった、やっぱり聞かなきゃ良かった。もし患者さんがそう感じて、「やっぱりやめておきます」と言ったら、「そうですか。ただ、そうですね、知りたいと言われても、残念ながら正確な予測はできません。個人差の大きいことですし、私は予言者ではありませんから。」というように応えます。
 一度の揺さぶりで躊躇するような覚悟なら、自分の余命なんて知らない方がいいからです。私の経験上、大抵の場合において患者さんの期待する余命よりも、実際に予測される余命の方が短いため、与えるショックが予想外に大きくなります。この場合、ただの「予測」が「呪い」になって、寿命を縮めてしまうかもしれません。それに正確な予測ができないのは本当のことですから。

 しかしながら、それでも知りたい、という方には、なるべく誤解のないように、それぞれに合った伝え方をするように心掛けています。正確な予測を伝えることもあれば、自分の見積もりよりも長めに伝えることもありますし、短めに伝えることもあります。大切なのは自分の見立ての正確さを誇示することはなくて、「その人がその人の状況になったときに、どう思うか」という見極めです。

 決して嘘を推奨するわけではありませんが、ただ正直に事実をつきつけるだけでは、必要以上に人を傷つけてしまうこともあります。それは医師と患者という特殊な関係性に現れるばかりではなくて、家族や恋人、友人との日常にも潜んでいる問題なのかもしれません。

 優しい嘘は、許されるのでしょうか。


ご拝読いただき、ありがとうございました。
他者に対する「思いやり」についてはこちらでも取り上げています。

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渡邊惺仁
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