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「ダンバー数」とは何か。/国家と憲法に関する考察

 人は利己的な存在と思います。
 「自分さえ良ければ」という思考が本能的に備わっているのかもしれません。
 思い遣りとか利他行とか、各種宗教や道徳で説かれるものは、即ち説かなければ達成されない行動ということを示しています。集団として望ましくも個人としてどうでもいいようなことは、外的要因がなければ、あるいは人格形成期にそのようなインプットがなければ、選択されなくて当然です。

 集団個人といいましたが、その境はどこにあるのでしょうか。
 例えば自分の子どもは自分と異なる個体ですが、親は一般に自分よりも子どもを優先的に守ろうとします。子どもの喜びを自分の喜びのように感じることもしばしばあるでしょう。

 例えば仲の良い家族があったとして、構成する誰かを思い行動することは自然なことです。
 例えば運動会で自分のチームが優勝したら嬉しく感じる人が多いでしょうし、優勝に貢献するように努める人は比較的多いでしょう。しかし、このあたりから雲行きが怪しくなってきます。地方自治体はどうか、国はどうか、同じ言葉を話す多民族はどうか。地球人類としてはどうか。その枠をヒトからさらに拡げて、霊長類はどうか、哺乳類はどうか、動物はどうか、植物、微生物は。

 思うに、どこかに限界があります。
 集団と個人の定義は当然「私」と「私たち」の違いでしかありませんが、「私」を「自我」と考えると、私たちは無意識のうちに自我の拡大を経験しています。先に述べた例のように、ある条件下では「集団」を自分のことのように感じ行動選択をとりうるということです。

 ダンバー数という概念があります。
 これは1990年代に英国の人類学者Robin Dunber (1947年〜)が提唱した数値ですが、彼は霊長類の脳の大きさと平均的な群れの大きさに相関関係があることに着目しました。これを回帰的に分析し、ヒトの大脳新皮質の容積から算出した結果、ヒトが安定的に円滑な社会生活を維持できる限界の人数(=ダンバー数)を148人(95%信頼区間: 100-230)と結論づけました。
 興味深いことに、実際に史実と比較すると様々な集団が自然とそれくらいの規模にまとまっていることが多いようです。これは「群れ」の研究であって自我の境界について直接の言及はできませんが、ヒトの認知能力の限界という観点において、極めて多くの示唆に富んでいます。

 ダンバー数を越える集団を維持するためには、より厳格なルールや罰則、報酬が必要となる可能性が示唆されます。数万人の地方自治体、まして億を越えるような人数の集団たる「国」の運営は容易ではありません。それが世界規模となれば、調和の困難さは想像に難くありません。

 憲法は国を維持する根幹的な仕組みのひとつです。これを起点にその集団の方向性を決めていきますから、極めて重要なものです。
 日本の憲法の三原則は「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」と表現されますが、果たして実体はどうか。法を規定するのは、そうしなければ守られない危険性を孕んでいるからに他なりません。さらに歴史を振り返ると、この根源的な法でさえ、全てをただ無批判に鵜呑みにすることには疑問が残ります。

 容易に答えはでません。
 しかし答えのでない問題に対峙して考え続けることは、希釈された「主権」を取り戻す一歩になると考えます。
 すると、次の一歩は他者との対話でしょうか。

 自分の枠を越えていく勇気は、
 何かを変えていきます。

 この記事も、何かを変える一歩です。


 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございます。願わくは、貴方の勇気が固定観念を打ち破り、未来を明るく彩りますように。



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渡邊惺仁
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