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わたし、気になります。

 古典部でもなければミステリでもなくて、彼女は千反田でもえるでもないのだけれど、我が家の三歳児は万事の気になる年頃です。

「ねぇパパ、なんでくるまは、はしるしかないの?」

 走るしかない??

 それは何かに追われているのか、アクセルを踏まれて走行する仕組みに車の自由意志が介在する余地のないことを憂いているのか、それとも走らずにゆっくり走行してもよいのではという、

 …あ。

「もしかして、なんで歩けないのかってこと?」

「そう。」

 娘はニヤッと微笑みました。そんなん考えたことありませんでした。思考の瞬発力というものの脆弱な私は「なんでだと思う?」と質問を質問で返しながら思索を巡らせます。

「んー、わかんない。」

 競歩大会における「歩く」と「走る」の定義は知っています。しかし問題はそんなことではないでしょう。なぜ車は走るものであって決して歩かないのか。そもそも走るとはどういうことか。

「…足が、ないからじゃない?」

 そう。走るという言葉の汎用性を思えば、きっと歩くという概念の側から攻めた方が早い。

「足が交互に動いて前に進むのが、歩くってこと。歩くためには、足が必要なのよ。車に足は?」

「ない。」

「だから車は?」

「あるかない。」

 娘は満足したようにみえて、そっかぁと呟きました。私は言語学者ではないけれど、二足歩行によって両手の巧緻運動を獲得し、大脳の発達と言語能力の飛躍的な向上を実現し文明を構築してきた人類にとって、歩くという行為は神秘的側面を有しているのかもしれないと想像します。

 何かに思い悩むとき、ただ歩くことが解決の糸口になることがあるように。



 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方の散歩道に素敵な花が咲きますように。



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渡邊惺仁
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