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純粋自己責任論批判/誰の・誰への責任か

 ひとつ問題が公になる度に、やれ誰某の責任だとか如何にして責任を取るのだとか、民衆は声高に叫びます。各々が好き放題の論調を並べて遂には暴力的な多数決なる手法を持ち出して一応の責任者、則ち件の問題の責を負う者が決まると、今度は日頃の鬱憤を晴らすが如く民衆は残虐性を剥き出しにして私刑を下す正義漢に成り下がります。

 これを自己責任論と判じます。

 20世紀末に台頭した新自由主義は、政府が市場を民間に開放して国民の自由な経済活動を許容する一方、社会保障を縮小する構図を有します。個人の経済活動を促すことで経済成長を期待する戦略において巧妙に国民に課せられるのが自己責任論であって、この発端は元イギリス首相マーガレット・サッチャーの発言にも垣間見ることができます。彼女は人生の美しさを『どれだけ自分自身への責任を引き受ける覚悟があるのか』と表現し、或いは『自分自身の面倒をみるのは自分自身の義務』と断言しました。成程彼女は国家の経済危機において優秀な政治家であって、その政策の実現の背景にあったのは強い自己責任論が道徳的で模範的だとする価値観を、巧みに浸透させていく手法だったと考察します。

 経済崩壊の危機にある国家を救済するために、肥大化する社会保障費を削減するという戦略自体は凡そ合理的判断に見えます。問題の本質は、戦略実現のために必要であった自己責任論という価値観が社会に浸透したことにあります。

 例えば、杜撰な経営によって閉店した飲食店のオーナーが借金を背負って一家離散に陥ったら。国家が借金を肩代わりして一家の生活をすべて保障するようなことはないでしょう。何故ならば経営不振はオーナーの責任であることは明白で、失敗したからといって面倒をみる責任など、私たちには全く無いからです。

 例えば、渡航自粛を勧告されている紛争地域にジャーナリストが単身入国して取材中に誘拐されて人質になった挙句、国家的に不利な開放条件を本邦政府に向けて提示されたら。勧告を無視して入国したのだから彼の自己責任であって、政府は何ら要求を飲む必要はない、でしょうか。本当に?

 例えば、シングルで就労と育児に追われる人が体調不良を感じながら、しかし自分の受診などする間もなく或る日に突然倒れたら。子を持つのもシングルでいるのも自由意志で自分が選択したことであって、どれだけ大変か事前に予測できたはずであるから、自己責任である、よって自分で何とかしなければならない。

 自己責任論は他者に頼ることを否定します。それは迷惑行為と見做され、或いは無責任だと批判の的になるかもしれません。そうして責任者を設けることで他のすべての人物が免責されるような錯覚が、自己責任論に拍車をかけます。自己責任論において責任の所在は極めて排他的であるということです。仮令それが責任能力を超えるものであっても、一度定められた責任者は逃げ場を失い、観衆は何の問題解決にもならない犯人叩きに夢中になって、束の間の満足感を享受するのでしょう。

 複雑化する現代社会において、自己責任論は最早行き詰まっているように私には感ぜられます。それは嘗て西洋哲学者たちの間で形而上学が閉塞し混迷を極めたときに酷似して、以てカント哲学の如く、コペルニクス的転回を要するのではないか、と。

 或る問題が発生した場合、その解決を図るなら、誰の責任か問うよりも誰(何)への責任かを明確にする試みの方が、遙かに建設的ではなかろうか。


 これが私の主張です。

 問題には必ず当事者があって、不利益を被る何某が存在します。不利益を被るものが何もなければ、それは問題ではありません。誰のせいでもない事故のような問題は有り得ても、誰も何も被害のない問題は存在し得ないでしょう。世界が混沌系である以上、全ての問題を何かの責任に断定することは無益で危険な行為であると私は考えます。

 勿論、科学的に因果関係を追求して再発防止を図る必要もあります。しかしそれは過去の分析により未来の問題を回避する手法ですから、今まさに起きている問題をどうするかという視点では無力です。そんなことは第三者機関や国家公務員や研究者やらが法に則って調査して、司法が然るべき判断をすればいい。それが法治国家の在るべき姿でしょう。

 直面する問題に対応を迫られるのは、常に当事者たちです。当事者というのは、事象に対する関与の有無に関わらず、問題によって発生する不利益を被る人や物事のことです。

 例えば、杜撰な経営によって閉店した飲食店のオーナーが借金を背負って一家離散に陥ったら。経営破綻は主としてオーナーの責任かもしれませんが、彼自身および彼の家族の生活は、無視されて餓死するのが当然でしょうか。彼らへの責任は、資本主義社会全体に弱く分散されて然るべきでは。一国家の国民として、社会保障を受ける権利を剥奪してはならないと私は考えます。

 例えば、渡航自粛を勧告されている紛争地域にジャーナリストが単身入国して取材中に誘拐されて人質になった挙句、国家的に不利な開放条件を本邦政府に向けて提示されたら。主たる責任はジャーナリスト自身にあるかもしれませんが、法的拘束力の乏しい「自粛」の「勧告」であったことを忘れてはいけません。政府は何をどうしても不利な選択を迫られることになって、しかし私たち国民は全て、そのジャーナリストの生命危機に対する責任について考え策を練る方がよいでしょう。選挙制度によって政府機能を委任したならば、刮目して政治家や官僚を応援する姿勢がなければ筋が通りません。私たちが戦争や紛争を否定するならば、世界平和という命題への責任は、人類全体に弱く分散されるべき事柄と考えます。

 例えば、シングルで就労と育児に追われる人が体調不良を感じながら、しかし自分の受診などする間もなく或る日に突然倒れたら。被害を被る当事者は本人と子どもと仕事に関わる人や物事です。その人個人の責任と断ずる前に、その人の健康や、子どもの生存権や、仕事という仕組みへの責任が、社会に分散されていることを理解する必要があります。


 助けて、と声をあげることです。

 頼ることは恥ずべき行為ではありません。


 新自由主義と共に生まれた『小さい政府』による社会保障制度の縮小は、根底に潜む自己責任論を暴走せしめ、責任者と非責任者との間を分断します。

 無益な議論に人生を費やすのを止めて、先入観を祓い問題の核心を見極めようとしたとき、私たちは漸く不寛容社会から解放される道を見るでしょう。

 頼り、頼られる。

 理想的な社会の実現に向けて、人間らしい情緒の再発見されることを、私は希います。




 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方と貴方の大切な人達が、どうか幸せにありますように。




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渡邊惺仁
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