諦めて試合終了になっても人生は元気に続いていく話
私は諦めました。多くの諦めを経験して、今ここにいます。瑣末な諦め事は記憶の彼方に消えていきますが、心の底に沈んで鎮座し、なにかの拍子に浮上して私を揺さぶる事もあります。哀しみでしょうか。怒りでしょうか。後悔でしょうか。満たされなかった願望は複雑に絡み合い、やがてコンプレックスになっていきます。
およそ諦めるという行為は負のイメージが付き纏うもので、通常、諦めた対象はその瞬間、叶わないものに変化します。例えばひどく喉が乾いているときに欲しい飲み物が売り切れていて別のものを買うような、瑣末なことまで考えると、一度も諦めたことのない人はいないでしょう。
「諦め」は本当にマイナスでしょうか。
そもそも言葉の成り立ちを考えると、その語源とされる「あきらむ」は元来、「十分にみてよく分かる」「明らかにする」という意味でした。これが平安時代に入り、「事情をはっきりさせて申し上げる」「聞いて事情が明らかになる」という肯定的な意味になっていきます(遠藤好英, 諦めるの語史ー古代における文章史的様相, 日本文学ノート, 19, 181-201, 1984.)。ところが転じて近代に「わかりきってしまう」という側面からか、断念するという否定的なニュアンスが含まれてきたようです。「あきらめる」という言葉は肯定と否定の混在する独特な言葉です。
小規模ながら「諦め」に関するユニークな日本の研究があります。15名の青年期の男女にアンケート形式で「諦めた経験」について詳細に情報を集め、これを分析したものですが、結論として「諦めること」は必ずしも否定的なものではなくて、肯定的あるいは建設的な側面をもつというのです。下図のように、諦めることは最終目標のレベルを下げること以外に、最終目標に至るまでの途中の目標の変更であったり、或いは別な目標の選択であったりします。
Shinichiro S. Definition and Structure of Resignation (Akirameru) During Adolescence
教育心理学研究 61(3), 265-276, 2013 より引用
目標をひとつ放棄することで、新しい可能性に目を向けるということです。実生活において、それは極めて建設的な生き方に繋がります。達成困難な目標に固執せず、視野を広くすることで得られる可能性はどれほど大きいことでしょう。
「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」
たしかに、その通りです。それで?
その試合は人生ではありません。どんなに重要な「試合」でも、それは人生の一部に過ぎません。諦めない強さは尊く大切なものですが、それに拘りすぎて意地でも諦めず、もっと大切なものを失ってからでは遅いのです。
その「試合」は、本当に諦めてはいけないものですか?
勿論、勝算が薄くても戦わなければならないときもあります。人生には立ち向かわなければならない試練というものがあるからです。
溢れるバイタリティで元気に何でも挑戦できるうちは、そんな悩みは生まれないかもしれません。しかし、いつか必ず壁にぶち当たります。何もかも諦めずに実現していくというのは不可能です。「あれか、これか」を考える必要があります。そうしないと、心が壊れてしまうからです。
あきらめ、あきらめる。
今の状況を冷静に見つめ、耳を澄ませて心の声を聴き、諦めたくないものが何か、見極める。それ以外は積極的に諦めて、いちど手放す。すると心が軽くなり、視界が拓けてくるはずです。たとえ試合が終了しても、人生は元気に続きます。
さぁ、自由です。
貴方の大切なものは、何ですか?
拙文を最後まで「諦めず」読んでいただけたことに至上の感謝を。願わくは貴方の「諦め」が、明るく幸せな未来に繋がりますように。
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