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ずっと憧れていて、ずっと追い求めてきたものの正体が今ようやくわかった

図書館で感じた、毒親育ち的な揺らぎと欠落感。

しかし真に追求すべきものとは何か。ずっと憧れていた人たちが本当に表現していたものとは何だったのか。

前回の記事(大学時代の友人のツイッターを数年ぶりに見て覚えた劣等感と、前に進む意志)からの流れを汲んでいるので、未読の方はそちらから読むことをおすすめします。面倒だったら読まなくてもたぶん大丈夫です。


図書館にて

なんだかんだ言っても未だ活路が見えず何者でもない自分は、動揺や焦りを胸に残していた。

これは長きにわたって慢性化しているので簡単には割り切れない部分があるし、これからもそうなんだろう。

借りた本を返しに図書館に入った。入り口近くのカウンターで返却の手続きをした。ついでに本を読んでいくことにした。


そして当たり前に、知らないことが書いてある本に出会った。
「自分はこれも知らないあれも知らない」と胸にチクリチクリととげが刺さるかのような感覚を覚えた。

そして当たり前だが、知らないことが書いてある本は書架に無数に存在する。

楽器の教本が目に入れば「自分に足りないのはこれなのかも」と何か楽器を始めなければならないような気分に襲われた。
イラストの教本が目に入れば「自分に足りないのはこれなのかも」と何か絵を始めなければならないような気分に襲われた。

自分はこのままでいいのか。
図書館なのにうめき声を上げそうになる。さすがにこらえるが顔は歪む。


こんな風になるのも、子供時代に親からうまく愛されず、その後も他人から認められるような人間ではなかったからなんだろうなと思う。普通に好かれたかった。だから僕はもっと強く、面白いことが出来るようになりたい。

持たざる者には帰る家もなければ、留まれる拠点もない。まだ見ぬ安住の地を求めて一歩ずつ進むだけ。選択というのは、複数の候補があって初めて可能になる行為だ。

いつも酷い逆風の中を一人歩いている。それゆえ雨風がさらに激しさを増しても吹き飛ばされることのない、確かな楔を打ち込むかのように物事を判断しようとする癖がある。

自分が間違っているということ、自分が劣っているということは、とりもなおさず死を意味しかねない。さっくりと楽に死なせてくれるならいいけど、中途半端で苦しいのは本当に辛いことだから。

自分有利な戦いというものをあまりしたことがない。そもそも「戦い」だと捉えずに済む事柄も多くはない。


だったら本当にやるべきことは何か。どうなるべきなのか。
閲覧コーナーのテーブルにて強迫的に積まれていた本を閉じて、少し考えてみることにした。


自分が救われてきた人達が表現していたことの本質

こういう話も何度かしてきたけど、もっと掘り下げてみる。

前回の流れから、これまでに救われてきた配信者やブロガーの特徴を挙げていくと、
思ったことを率直に言う。ストレートな感情表現。すぐ暴言を吐く。
他人の色に染まらない強烈な個性と自我。
安易に協調せず自分を主張し続ける。
既存の常識や秩序を嘲笑するかのような、反社会的で不道徳な振る舞い。

これらは目に見える特徴ではあるが、大事なのはそれだけじゃない。これさえやっていれば誰でも見たくなるわけじゃない。


ライブ配信でも、ブログでも、それを自分らしさとしてやっている人を好んで見ていたんだ。取ってつけたようなものではなく。

自分らしさとは、それぞれがもともと生まれ持った資質を時間をかけて大事に育んだ結果であり、取ってつけたようなものを付け加えようとしてもそれは手にはなじまない。

その資質はポーカーのカードのようにチェンジすることは許されず、生まれ持ったものと向き合うしかない。


しかもそれだけじゃない。

現代社会において疎まれるタイプの自分らしさを磨き上げて、開花させているから好んで見ていたんだ。

そして自分も同様に、開花させにくい疎まれる自分らしさを持っていたんだ。


彼らよりもっとトークスキルがある人、もっと文章力がある人はいくらでもいる。

でも自分が求めていたのは面白い話ではなく、その人の話。
面白い文章ではなく、その人の文章を求めていたんだ。

だから他の誰かと比べてスキルが低いとか、Aという学校を出ていないとか、Bという資格を持っていないとか、そういう批判は全く的外れだ。

僕は彼らの能力が高いから好きになったわけじゃない。

その人がその人であることを好きになった。
世界で唯一無二のその人間を見に来てる。



思えば、彼らと出会うまでの日々はまるで牢獄だった。

平板な図形が延々と続くモノクロームの牢獄だった。
その無機質な世界の中で誰が最も従順であるかを競わされていた。

似たような格好の奴らが
似たような言葉を話し
似たような目標を掲げ
似たような表情で俺のことを見下していた。

殺してやりたいと拳を握りしめた。
でも自分は弱くて何も出来なかった。

彼らはそんな世界から僕を連れ出してくれた。
視界に彩りをくれた。真っ黒な心に火が灯った。



自分らしさが他者へ与える快

自分らしさとは、基本的に他者に快を与えるものだと思う。

一般的にはよくないことだとしても、その人がやると心地良かったり、なんか笑っちゃうことってある。僕はそういう種類の笑いが好きで仕方ない。

自分らしさが不快を感じさせるとしたら、そのほとんどは嫉妬だ。

自分らしく生きられていない人や、そのための挑戦をしたかったけど勇気が出なかった人は、眼前に実物を提示されると嫉妬して怒りに狂う。

その口からは、「常識」とか「ルール」とか「人のため」という言葉がさぞかしたくさん放出されていることだろう。


逆に自分を偽ることは、他者に不快をもたらすことが多いと思う。

小手先のイミテーションも時間がその本性をあらわにしてしまう。


自分らしくあることの美しさは、動物のしなやかな美しさにも似ている気がする。

サバンナを雄々しく駆けるライオン。
その動向を警戒するシマウマ。
大きな群れで行動するという戦略を選んだヌー。
天上から全てを睥睨するワシ。

そこに善悪はなく、ただ熱がある。

中島敦の小説に出てきそうな生命の躍動がそこにはある。


人間は知恵を付けた分生存に有利となり、他の種を押しのけて地上の王となったが、その中で失われたものがあるのかもしれない。


そして自分も自分になっていく

そんな先人たちの背中を見ながら、自分自身もこのnoteという場所で自分が自分になっていくという作業をしていたんだ。

表現していく上で文章力も大切だけど、最も重要なのは自分が自分になっていくということだったんだ。


僕はnoteを始めてから現在でだいたい二年ほどなんですが、二年にしてようやく自分が憧れ追求してきたことに気づきました。

振り返れば「自分らしさ」とか「個性」の話多すぎ。


ここから先は、さらに深く潜る。

人と人は違っていて当たり前なので、どこかの部分で「私と同じだ」ということにあまりに執着しすぎていて、違いを許せない方にはしんどいと思いますよ。ご用心を。

僕は自分のことを善人だと言ったこともなければ、そう思ったこともない。


現在のネット上では言いにくいこと、やりにくい振る舞いというのがあると思います。でも流行や風潮というものは風向きのごとく変わっていきます。

五年後、十年後、そしてもっと長い時間軸で考えて後悔のないこと、後に残るものって何なんだろう。それを考えてやっていきたいですね。

空気を読んで本心を隠したり時期尚早に無理やり前向きにならず、悲しい時は本気で悲しみ、腹立たしいときは本気で怒る。

今の風当たりは強いかもしれないけど、僕はそんな人が好きです。自分もそうでありたい。



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