バフチン論『生きることとしてのダイアローグ』にて特異な「対話の哲学」を学ぶ
今週読んだ本では、ミハイル・バフチンの「対話の哲学」を扱った、桑野隆さんの『生きることとしてのダイアローグ』が面白かった。
バフチンの「対話の哲学」は、そもそも難しい。
ソ連時代の哲学者ということで伝記にも謎が多いし、そもそもマルクス主義がベースにある思想家なので、今日ではその用語や理論的前提が共有できないところも多い。
そのうえ本書で桑野さんが指摘している通り、「対話の哲学」は、ドストエフスキーの小説作品についての評論の中で出てくる。「ドストエフスキーの小説には対話の哲学が表れている、たとえば『罪と罰』のこの場面を見てみよう」といった、小説の読み解きとセットで説明される。つまり、体系だった説明が残っていない。
だがバフチンの「対話」。
「どんな人とでも対話すれば分かり合える」というような、ホームルーム的な発想とはどうやら別次元のようだ。
桑野隆さんの整理した言葉を引用すると、
・資本主義は「人間はひとりでも生きていける」という錯誤を引き起こすが、どんな個人も他者との対話の中から生まれてくる。生きるということは、そもそも他者との対話の中に参加するということである
・「存在する」ということは他者と「対話する」ということである。対話に終わりはないし、終わらせてはいけない
↑ここで「資本主義の悪」的な言葉が出てくると世代的に私は警戒してしまうものの、しかし、言っていることはかなりグッとくる。
「人は一人では生きていけない」どころではなく、「そもそも生きているということは既に対話の中にいること」という。単純に見えて、けっこう鋭い視点の変更を要求してきている。
けど、それよりも、「いいな」と思ったことは、
「対話に完了はない」という主張。
考えの違う人を論破してスッキリすることも、説得して仲間に引き入れることも、相手を暴力的に潰すこともない、ただただ、違う考え方の人どうしの対話(仲の良い対話ではなく、しんどい言い合いを多分に含む)を続けて、未完了のまま死んでいくことを推奨しているような、徹底した「ひとりよがり禁止」人生観のこと、と私は解釈した。
そして、↑このようにバフチンを理解すると、なるほどドストエフスキーの読み方も変わってくる。宗教家からニヒリスト、テロリストから博愛主義者、まだ逮捕されていない犯罪者(ラスコリーニコフ!)までが入り乱れて、「お前が間違っている」「いやお前が間違ってる」とケンカしながら物語が進み、「誰が正しいか」という野暮な結論は出さず、読者にも「あなたはどう思いますか」と参加を促すようなところがある。
そして、これは皮肉ではなく、「誰が正しくて誰が誤っているかの結論なんかは出ない」とする考え方は、マルクス主義っぽくなくて、よくぞこれがソ連時代から登場しえたものだと感慨深くなってしまう。
とはいえ、、、↑このような粗っぽいまとめでは、まだまた抜け落ちているニュアンスが多くあると思う。やはりバフチンは難しい。
難しいけど、その端緒として、桑野隆さんのこの本はとてもわかりやすく、バフチン入門にはピッタリな本なのではないかと思う。