ミシェル・フーコーの「火事の夢」分析-まさかフーコーが「夢」というテーマにこんなに踏み込んだ論文を書いていたことがあったとは!
皆さん、こんにちは。
noteで夢日記などを連載しているヤシロと申します。
今回もよろしくお願いします。
さて、、、
読書生活をしていると、意外な発見というものが出てくるものですよね。
前々から読んでおりよく知っていると思っていた作家が、意外な雑誌に寄稿して意外なことを主張しているのを見つけたり、
あるいは食わず嫌い(※この場合は「読まず嫌い?」)していた著作家からの引用が、ふと、どこかに載っているのを読んだとき、「あれ?この人の本は自分に合わないと思って読んでこなかったけど、なんか良い事いってるじゃん??」と驚いたり。
そういうハナシで言いますと、たとえば私、
一時期(どちらかと言うと私が苦手な)日本の文学系エリートの間で大人気だったミシェル・フーコーというフランスの哲学者を、読まず嫌いしていたところがありました(それでも『言葉と物』だけは学生時代に背伸びチャレンジしてました…全然読み切れなかったけど。ま、私も現代フランス思想ブーム世代にかろうじてかかってるからね)。
そもそも、夢日記なんぞをやっている私が哲学とかに期待しているのは、「夢と現実」とか「脳と心」とかいったテーマに踏み込んでくれるもので、フーコーというのは(なんとなく)そういう方面ではない人と思ってた。
ところが、、、
私が自分で夢分析をやる時の理論的背景(というか、受け売りのパクリ元w)である、現存在分析派の開祖であるビンスワンガーの『夢と実存』に、フーコーが論考を寄せたことがあったと知り、驚いて取り寄せてしまいました。フーコーがビンスワンガーを論じていたなんて知らなかった!
そして読んでみれば、紛れもなく、これはフーコーがビンスワンガーの論文への寄稿、というカタチをとって、フーコーなりの「夢分析」観を書いている論文でした。というわけでめちゃくちゃ私には面白く、
↑そうですよ、、、そうなんですよ、、、フーコーさん!私がフロイトを尊敬しつつも、その理論を夢分析に使いたがらないのは、まさにこの点なのです。よしんば「火事の夢は、性の象徴だ」というフロイトの決めつけを(こういう「〇〇はxxの象徴だ」という決めつけ論法自体にも私は言いたいことがあるが)、認めたとしても、「性に憧れてるのか」「性から逃れたい」のか、夢見る人のおかれているコンテクスト次第でどちらとも取れてしまう。このあたり、フーコーの言う通り、「フロイトの夢分析は先駆的な業績ではあるものの、せっかくの多様な可能性を切り落としている」がゆえに批判され乗り越えられるべきであると。
この他にも、短いながらも「夢」に関するフーコーの切り口がいろいろと見えて、しかもその切り口がちゃんと後の『監獄の誕生』や『性の歴史』のテーマを先取りしているようなところもあって、実に面白かった。
こういうことがあるから、結局、読書好きというものはやめられない。。。
なお、ビンスワンガーやら、それを解読するこのフーコーの本やらを読むには、実はハイデガーの『存在と時間』が必読です。ハイデガーもいろいろとあって最近は読み手が少なくなってる哲学者と思いますが、有志の方は、ぜひ!