アルチュセールと『理趣経』の話:けっきょく人間には性と暴力の泥沼からの出口なし…と認めて慄きながら生きるのが正しいのかも、しれない
先日、『終わりなき不安夢』という、フランス構造主義の旗手の一人、ルイ・アルチュセールの遺稿の中から発見された夢日記の話を私のnoteで取り上げました。
で、その後もずっと、このルイ・アルチュセールという人のことが気になっています。
だって・・・まず・・・そもそも・・・私・・・
さっきもうっかり、「フランス構造主義の旗手の一人、ルイ・アルチュセール」と書いてしまいましたが、、、
もしかして、これ自体、1990年代のフランス現代思想ブームの頃に学生時代を過ごして「わかったつもりになっちゃった」日本人の一人である私の、悪いクセにすぎなかったのかもしれませんね。
というのもですね。。。あのですね。。。恥ずかしいことを、まず、今日は、言っちゃおうと思いますが、
フランス思想に詳しい方からは、「え!?いまさら気づいたの!!」と腰を抜かされるような、しょうもない気づきかもしれませんが・・・
でも、最近、とつぜん、私個人は、気付いちゃったんですよ、、、
すなわち、
アルチュセールって、「構造」って言葉をよく使う人ってだけであって・・・別に「構造主義者」じゃないのでは??!!
思想通な方からは「いまさら?」って笑われるかもしれんが、
私の頭の中では、横山光輝三国志の諸葛孔明が現れて、
「お気づきになりましたか?」
と優しく笑いかけてくれました。
ですよね・・・構造主義者って呼んでいいのですかねこの人、、、気になってくると違和感バリバリですよね、、、よもやこの人は少なくとも「構造」って言葉をよく使う人ってだけかもしれなくて、
それは少なくともレヴィ=ストロースの言っている厳密な意味での「構造主義」の「構造」とは、あんまり関係ない。
じゃあ「構造主義の方法でマルクスの資本論を現代によみがえらせた人」って、1990年代にアルチュセールを説明する際にしばしば付随していた紹介文は何だったのだ・・・てことになるし、
さらには、少なくとも、最近、私が読んでいる、彼の遺稿集を見ているかぎり、、、
彼は時代の要請でマルクスを徹底的に研究していた人ではあるけれど、
マルクス主義者と紹介するのが適切かも、もはや、怪しい、、、
続々と日の目を見る遺稿をみていると、アルチュセールが真にシンパシーを持っていた先人というのは、
スピノザでありマキャベリであり、フランス哲学だけでいうなら、バシュラールのような科学哲学の人ではなかろうか!とかとか。
そして、ついに出版されたのが、
先日も紹介した、こちらの「夢日記」である。
露骨なまでに、
性や
暴力が炸裂する
おそろしい悪夢の記述が続く夢日記のことである(この人の場合の悪夢というのは、何かに襲われる夢だけじゃなく、アルチュセール本人が夢の中で他人に乱暴をしてしまうという、もっと恐ろしい悪夢を含んでいます・・・よく正直に夢日記に書けるよな、そんな、普通は他人に知られたくない筈の夢まで・・・)
「性」と「暴力」といえば、
以前の私は日本仏教の話の中で、以下の記事にて、『理趣経』という、「男女の性欲」や「敵への暴力」すらも「悟りへの道になりえる」と説く恐ろしい経典の話をした。
恐ろしい経典であり、これを読んでしまった以上、私は「日本仏教は独断ともエログロとも暴力とも戦争とも無縁な清らかな宗教だ」と単純には言えなくなってしまったのですが、
そんな『理趣経』を読んだ記憶と、今回、ルイ・アルチュセールの夢日記を読んだ印象が、どこかで絡まり合い、
まだまだ読みは浅く間違いかもしれないが、もしかして、と思ったことがある。
もしかしてアルチュセールは、とにかく合理的で無味乾燥になりがちな「現代哲学」の中で、孤立無援で、古典的な(むしろ文学や宗教学に近い)哲学テーマ、
人間というものがどうしても持ってしまう、性や暴力との関係、、、まあつまりは「悪の問題」
というものをしっかり追いかけていた人ではなかろうか。
だとしたら…今まで「マルクス主義者にして構造主義者?ふうん、じゃ、僕には無縁な哲学者だな」と思って敬遠していたアルチュセールが、ばっちり、私の生涯の関心と重なりあってくる先人ということになる。
もしかして・・・アルチュセールの有名な「国家のイデオロギー装置」というのも、単純ではなくて、
実はアルチュセールが言っている「イデオロギー」って、「性なんてものは社会が押し付けてくる役割にすぎない!・・・と言っている人にかぎって裏で性の問題で身を落とす」とか「戦争や暴力と自分は無縁だ・・・と言っている人が何かのきっかけでズブズブと犯罪加害者になってしまう」とか、そういう人間精神の「どうしようもない闇」まで見据えたイデオロギー論じゃないでしょうか?
アルチュセールの「イデオロギー批判」っていうのは、よくある
「世の中の人は、みんなイデオロギーに凝り固まっていて馬鹿だなあ。僕らマルクス主義者は偏ったイデオロギーとは無縁だもん!」・・・というイデオロギーに凝り固まっているマルクス主義な人(!)とは、まるでレベルが違うところで喋っていることなのかもしれない。
なるほど、イデオロギーは性や暴力や、抑圧や権力の温床である。そういうイデオロギーは批判すべきだし、その醜さを批判はできる。
だが・・・人間はイデオロギーから脱出することはできない。
批判はできるし、相対化はできるが、「そうやって自分はいかなるイデオロギーからも逃げたぜ」と思った先がまさに偏ったイデオロギーだったり、そういう人ほど、性のスキャンダルや、暴力沙汰に巻き込まれた時には弱かったりする、つうかニュースを見ていて目につくのはそういう事例ばかり。
どうしようもなくイデオロギーから逃げられない人間の「絶望的状況」を見据えた上で言っていた、イデオロギー批判かもしれない。
だとすると・・・そうだとすると・・・
いまさらながら、私は、アルチュセールを、「構造主義者でも、マルクス主義者でも、ない人」として、読み直すべきなのかもしれません。
たまたま「構造」という言葉を使ったり、マルクス主義的な「イデオロギーがー」とか「国家の装置がー」とかいう言葉を使ったりするが、見ているところは単純な構造主義者やマルクス主義者よりずっと深く・・・ずっと・・・昏くて恐ろしいところを見ていた?そういう人であるとして、彼の本を改めて読んでみようと思います。
というふうに・・・ズブズブと、この手の「アブない」哲学者の著作にこそハマっていく傾向のある私は私で、既に何かおそろしいイデオロギーの夢の中にいるのかもしれませんがね・・・
せめて、私自身は、スキャンダルにも暴力にも巻き込まれず静かに生きたいですがね。アルチュセール自身すら、奥さんを殺害するという、とてつもなく恐ろしい最期を迎えた、その事実におののきつつ。
※追記:なお、こういうふうに見てくると、現代思想界におかける、アルチュセールのよき理解者は、実はむしろラカン派のジジェクかもしれなかったり。『イデオロギーの崇高な対象』は、アルチュセールの名前は最初のほうにちょこっと引用されているだけですが、実はアルチュセールのイデオロギー論に対するラカン派側からの呼応ともとれて面白かった