途中下車してみたら、そこは秘境だった──JR水郡線矢祭山駅【note創作大賞】
──ああ、もしもし。
急で恐縮だけど、今度の水曜日、ちょっと秘境まで行ってみない?
01:山門文治ちょっと、
秘境まで行ってきました。
どうも、山門文治です。
こんな角度から失礼します。
ぼくは、高校中退してから、6年ニートをしてそっから、一念発起して大学受験して、AO入試で文学部に入学したという人に話すとちょっとだけ驚かれる経歴の持ち主だ。
ニートだけど、遊びたい。かといってお金がない。そんな状況でぼくの遊びココロは養われた。そして、いつの日にか人々はぼくを遊び名人と呼ぶようになった(とかならないとか)。ぼくの頭の中には夜景スポット、隠れ名所、安くて美味いお店、安く楽しめる施設、博物館や美術館を楽しむ技術、でっかい本屋を楽しむ技術、一冊の本を5倍楽しむ、こんな知識が詰まっているのだ。
さて、お金をそんなにかけずに、ぼくがGWにいっしょに行ったのは水戸と郡山の間にある矢祭山という秘境駅だった。
──ねえ、ちょっと秘境まで行ってみない?
──そう、秘境だよ。
──え、どこって。秘境だよ。秘境としか言えない。卑怯だよね、なんちって(笑)
──いいから行こ。絶対、楽しいからさ。
──よし、決まり!もう予約取っちゃうから。
当日12時に東京駅待ち合わせね。遅れんなよ(笑)じゃあね〜(ガチャ
そして、当日。ぼくたちは、東京駅の誰もがついついカメラを構えてしまいたくなる東京駅の、あの印象的なトンガリ屋根の下で待ち合わせることになった。
──水戸までの切符を買おう。
こうしてぼくらの冒険が始まった。
02:冒険の醍醐味
「東京」から切り離される感覚
東京駅発で水戸到着の特急「ひたち号」。
最高時速130キロが、ぼくたちを東京からだんだんと切り離していった。
こんなこと想うのは、ぼくだけだろうか。
日々の営みである日常はだんだんとおぼろげにその輪郭が失われていく。
距離の移動とともに、だんだんとぼくらのこころも冒険を受け入れ始めようとしていた。
上野→柏→土浦→友部→水戸
という順番でひとまずの目的駅である水戸に到着する。所要時間は約1時間半。
それにしても、旅行にはそれ相応の距離と時間が必要だと常々思う。
どこでもドアみたいな便利な未来の道具が出てきてしまうと、「いつもいる場所から離れる」あの高揚感と罪悪感が混じり合ったあの感じが、旅行から失われてしまうのではないだろうか。
やっぱり、この独特の切り離されている感覚のような、粘着質の強いなにかが剥がれ落ちていく感覚が必要なのだ。
だからこそ、車窓は最高なのだ。東京が剥がれ落ちていくのをぼんやり眺めることで、それを実感できるから。
※こんなこと書いちゃうとまるでぼくがアンチ東京のテロリストみたいに思われかねないので、強調しておきたいが東京というのは、比喩的に日々の営みを象徴的なフレーズに託した表現である。
はるか後方へ遠退いていく東京は、ぼくらが暮らし、ぼくらが営み、ぼくらいが生きる場所。
巨大システムが、街の安心と安全をつくっている。だけど、そのせいでぼくらはとても窮屈にもなっている。働いて、消耗して、また働く。誰かが言った「まだ東京で消耗してるの?」。となりの芝生を見渡せば、格差社会にマウント合戦、見栄の張り合い、化かし合いの馬鹿試合。日々に忙殺されて、やりたいことは宙ぶらりん。数字を稼ぐ数字といつまで経っても王子様が現れない悲劇のシンデレラたちの饗宴が、東京という街なのだ。そんな窮屈な循環から一度断ち切ってくれるのが、旅行なのだ。
未知なる奥地へずんずん進んでいく感覚のことで、この先どうなっちゃうんだろうって、みぞおちの奥がキュンとするワクワク感がさらなる探究心を駆り立てて、ドーパミンが前へ進めと命じてアドレナリンがちょっとした恐怖心を和らげる。ふだんの見慣れた景色から切り離されて、見慣れぬ風景が広がってくる。
旅は、あとから冷静に考えたら、あの時のじぶんはなんであんなことしちゃったのかわからないようなことをしてしまうものなのだ。旅が楽しかったら、自然と気持ちが大きくなってどんなことでも許せてしまう。トラブルがあった旅行のツアーの方がリピート率が高いという話があるが、まさにそういうこと。人は未知なるわくわくを潜在的に求めているのだ。
ああ、これからどうなってしまうのだろう。
未規定世界へ、行ってきます。
———The next station is Mito. The doors on the right side will open.
車掌の下手くそな英語のアナウンスが、ぼくたちに到着を告げた。
水戸に到着した。
03:二両編成の単線列車
水郡線の魅力
特急ひたち号が水戸駅に到着すると、ぼくたちは一度改札を降りる。
次の乗り換えまで1時間待たなければいけないので、水戸で腹ごしらえするという腹積もりである。
水戸グルメといえば、納豆とあんこう鍋。
納豆の天ぷらとあんこう鍋を堪能したら、いよいよ水郡線のあるホームまで。
スタバで食後のコーヒーを忘れずに。
水戸駅の1番線ホームには、水郡線に乗るための列ができていた。
平日とはいえ、地元住民には親しまれている電車だということがよくわかる。
やがて、水郡線のドアが開くとその行列は2両編成の中へ吸い込まれていく。
※ちなみに、最初は並ばないと座れないくらい混みます。でも、途中の駅常陸大宮駅や常陸太田駅でだいたい降ります。目的地の矢祭山駅につく頃には、ほとんどの乗客はいません。
水郡線の郡山行きは、1時間に1本しか来ない。1本乗り遅れたら、次は1時間後。
ところで、あなたは水郡線についていったいどれだけ知っているだろうか。
水郡線と聞いて、「あ〜はいはい水郡線ね」となる人がいたら、あなたはよっぽどの鉄道オタクか、そうでなきゃ地元民だろう。
この路線はそれくらいのマイナー路線だ。
ぼくの地元の多摩都市モノレールもよっぽどだと思うが、水郡線は多摩モノレールの比じゃな
いくらいマイナーだ。
そもそも水戸と郡山。
擬人化したとてクラスの隅っこの方でヒソヒソ話してる2人だろう。
こんな感じのなんとも言えない、切なくなってしまうポジションだ。
どうしてここまで言われなければいけないのだ、と思うかもしれないが、時刻表を見てもらいたい。
今、あなたの出かかった言葉は喉の奥に引っ込めることだろう。
これはヤフー路線の時刻表なのだが、終電の時間に注目してほしい。
?! 19:12
そう、こんなにも終電が早いのだ。
King Gnuには終電のあとに歌うと超かっこいい『壇上』という曲があるのだが、水戸ならば19時台にこの歌を歌えてしまうのだ。
水郡線の終電は19時なのだ。
※これは水戸から郡山へ行く場合の話なので、その途中である常陸太田行きなどは23時台まで走っています。
それでは、水郡線の車窓と水郡線内の様子を写真でお楽しみいただきたい。
04:水郡線のボックスシートは、
対話にもってこい
──ね?楽しいでしょ?
──こうやって都市(水戸)から切り離されれるとさ。
不思議とだんだんまわりの座席も空いてきて、車両を独り占め。
──こんなに遠くまで来ちまったなって
──こんなに遠いところまでいっしょに来ると、
ベダだけど、、こう、、、絆?(笑)が強まるみたいな?
──こうやって、東京だと小っ恥ずかしいような話もさ、
水郡線の向かい合っているこの席だと、こころが正直になっちゃうんだよね。
──水郡線、対話にもってこいだね。
水郡線は山間部を走っているので、電波から遮断される。
スマホが使えないと、目の前の相手と対話をするしかすることがなくなってくるのだ。
もしこれが一人なら、向き合うのは自分自身。
仲良いことにしている目の前のその人のことを考えてみたら、ほんとは何考えているのかよくわからない。
現代社会では、それほどまでに対話をする機会に恵まれない。
会話をするし、円滑なコミュニケーションもとっている。
しかし、価値観を交換するような、お互いの人格を表すような対話にはなかなか踏み込めない。
ふだんぼくたちが住んでいる場所では、それが照れ臭さとして作動してしまう。だけど、水郡線ではるばる、こんなところまでいっしょに来てしまったなら、もう対話するかしないのだ。
「いや、実はさ」「ほんとはさ」こんな枕詞から炸裂する自己開示の数々の往来発着によって、「へぇ、この人実はこんな人だったんだ」って、その人のことがよくわかり合える。わかり合うためには、じぶんもたくさん話さなくちゃいけない。でも、その分たくさん聞かなくてはいけない。じぶんのことだけわかってもらおうとしてもだめなのだ。そうして、上手な対話が弾むと互いの人格の輪郭が重なり合ってくるような。
「ねえ、あれなんだろう」
車窓からこんなオブジェクトが視界に飛び込んできた。
それは、「降りなくちゃ」という気持ちになる橋だった。
田舎の電車の車窓というのは、景色を彩る額ぶちの役割を果たすものだ。
大人になると、好奇心と行動を直結させても、あまりよしとされない。
直情的な生き方ね・・と敬遠される。だけど、こうやってたまには気分の赴くままに途中下車るしてみたくなる。
荷物を急いで畳んで、車掌さんに「すみません!降ります」と告げて、ドタドタ降りる。
05:ここが秘境。
矢祭山駅
山小屋のウッドデッキのような駅には、こんな味わいのある駅名標が掲げられている。やまつりやま・・
僭越ながら、ぼくはこの名前をこれまで耳にしたことがなかった。
だけど、なんだろう。この駅の名前からは、なにか惹きつけられるフェロモンのような蠱惑的名称ではないだろうか。ここにはなにかがあるといいう直感が疼く。
なぜこの駅に途中下車したくなったのだろう。
理由は、もちろんあの大きな赤い桟橋。
まずもって、ここは爽やかな秘境だった。
空気がおいしいとはまさにこのこと。
時刻は、14時。5月のすがすがしい陽光が、ぼくらを親密に包みこむ。ときおり、頬に触れる空気がひんやりと気持ちがいい。
花粉もなし。こうして歩くと、この国は5月が行楽シーズンの代名詞である理由がよくわかる。こんなにも清々しい。こんなにも瑞々しい。
どうやら、矢祭山という山があるらしい。駅を降りるとすぐに、その山の登山道がいざなっていた。
矢祭山は、ヤマツツジの朱色に染まった贅沢な色使いだった。
駅前から徒歩5分圏内に2店舗ほど飲食店がある。ひとつは高台から赤い桟橋を見られる店、もうひとつは川床で食べられるお店(こっちはちょっと歩く)。売ってるのは、おもちとあゆで、だいたいどちらも同じ。
自然の中で食べるあゆ。
目の前で七輪焼きしてから、紙皿に乗せて持ってきてくれる。
「いただきます!」としゃぶりついた。うますぎる。背中からガブリとね。
ちなみに、300円。かなり肉厚で、癖の少ない白身魚なので内臓までまるごと食べられる。川魚特有の小骨の多さはあるけど、それを吹き出しながら上手に食べられるのが日本人らしさだよなぁとしみじみ。
腹ごしらえしたら、散歩の始まりだ。
06:旅行×散歩
最強の方程式
思い返せば、ぼくはよくふらふらどこかへ行ってしまう子どもだった。
物心がついての最初の体験は、家族旅行でホノルルに行って迷子になったという思い出だ。
あのときに迷子になってみる快感を知ってしまったのだと思う。
この先どうなってしまうのだろうというブレーキを取っ払って、その先の奥へ進んでいける。これが自由ということなのだ。
したがって、散歩によって「自由」を体感できる。主体的にふらっとさまよえば、ふだん見慣れた景色であっても違った体感を得られるだろう。この高揚感が散歩の醍醐味である。
とんでもない性癖を暴露するようだが、はっきり言って散歩はたまらない。
都市をふらふら、田舎をふらふら。
どこの駅で降りてもそこが「観光地」に変えてしまえる力と言い換えてもらってもかまわない。大学で観光学の講義を習ったのは、最近の観光地は「聖地巡礼」のような逆転現象的書き換えによってメタモルフォーゼを完了するということだ。つまり、観光地というのは、もはや自然の美しさや歴史的な価値だけに依存するものではなく、個々の観光客の興味や関心によって新たに再定義されるのである。特定のアニメや映画の舞台となった場所が、ファンによって「聖地」となって多くの人々の関心の対象になって、どんな場所でも人々の心に響く物語や文脈があれば、観光地としての魅力を持つことができる。
たとえば、聖蹟桜ヶ丘駅は新興の住宅街であるため歴史に恵まれない。しかし、スタジオジブリの「耳をすませば」の舞台となったことで、あの土地にはひとつの文脈が発生した。あるいは、『君の名は。』の舞台としてあまりにも有名になった岐阜県飛騨や長野県諏訪などにも、文脈を振りまいた。こんな風に土地に文脈が発生することにより、観光に新たな楽しみ方が登場した。
これらの文脈を余すことなく堪能するのが、旅行というものなのだ。つまり、散歩こそ旅行の楽しさを何倍にも加速させるチートアイテムなのだ。
07:奥へ進む
これが冒険だ。
車窓から見えたそれは、「あゆのつり橋」というらしい。
この地域では、6月の釣り解禁とともに鮎釣りが盛んになるからだ。
ここで跳ねると、橋も跳ねる。
きみがはしゃいで揺らすから、つられてぼくも揺らしてしまう。
いい大人の悪ふざけ。
あれ、ぼくら今年で30歳じゃなかったっけ?
橋の上から見下ろすと、眼下には久慈川と壮大なスケールの山々が広がっている。
久慈川の水は透明感があってきれいだった。
橋から川をボーっと眺めていると、水にはいくつかの光が反射する。数匹の魚が泳いでいるのを確認できた。鳥はこういう魚の反射を見逃さないのだろうなと思った。
橋の上からだと心地よい風を感じることが余計にできる。
しばらく橋からの景色を堪能し、橋を渡りきると少し様子が変わったのがわかる。
橋を降りると空気は、ひんやり張り詰めた。
仄暗い緑の小路に出くわす。
奥まで続く。
せせらぎの小川と平行して、コンクリの道が続いている。
歩き進むと、森の静けさがぼくたちを包みこむ。
外部とは切り離された神聖な場所という印象を与える。
森の奥には、「おりこうさん」が鎮座している。
「世界中の子供達がおりこうで元気に育つよう願いを込めて建てられました」。
頭を撫でるとねがいが叶うらしい、もちろん撫でる。
さらに進むと、「合格さん」が鎮座している。
なぜか合格祈願。
ぼくらには、合格を控えた受験はないのでここはパスするが、「おりこうさん」にしても「合格さん」にしても、子どものための場所であることがわかった。
親子で受験シーズンなんかにリフレッシュをかねて、合格祈願にここへ憩いにくるのもいいかもしれないと思う。
「合格さん」を目印に、道が少しだけ険しくなる。
最深部にはまだ何かがあると言いたげな道だった。
もはや登山道のようだが、気にせず歩く。ニューバランス2002Rくん、がんばってくれ。
それにしても、
最深部には何があるのだろうか。
ゲームのダンジョンみたいで、面白い。
神秘的な滝があった。
パワースポットなんだろうか。
夢想滝不動尊?
このドラえもんの映画のタイトルのような不思議な滝は、どうやら霊験あらたかな場所であることがわかった。
なんかパワーをもらえた気がする。ここにはなにかある、気がする。
最後は腹ごしらえ。
こういうところで食うサンドイッチってなんでこんなに美味しいの?
08:途中下車なのに
「また来ようね」
あれは異世界だったのだろうか。
夢想滝の中にいる間は、気がつかなかったけど、
下車してからすでに3時間が経っていた。
さすが、弘法大師の護摩の中。
楽しいとどうしてこんなに進むのが早く感じられてしまうのだろう。
つまらないときばかり長ったらしく感じられる時間だが、逆だったらいいのにといつも思う。
なんにしても、ぼくらはこの滝に夢中だった。
緑の中にいる間は、東京のあれやこれを忘れてはしゃいでいられた。
大人が子どもに戻る瞬間というか、童心に帰る瞬間というか。
橋と滝と川と緑のなかを歩いただけなのに、なんだか極上のリラックスを体験できた。
──また来ようね。
こう言ったのはきみだったか、ぼくだったかよく覚えていない。
ぼくが言ったような、きみが言ったような。
でもそれは些細なことだ。
だって、それがどちらであっても、きみが先に言ってたか、ぼくが先に言ってたかの違いに過ぎないからだ。
09:水郡線に乗ってみて
絶対、楽しいからさ。
ところで、よけいなお世話だと言われるかもしれないけれど、この二両編成は10年後走っているのだろうか。それじゃあ、20年後は走っているのだろうか。
この国の少子高齢化の問題を考えれば、この答えは自ずと出てくるのではないだろうか。では、どう保存するべきか。
これまでの日本はとても豊かな国だったのかもしれない。
しかし、これからの日本は経済大国の座を他国に譲り渡していくことになる。
もちろん、半導体の製造やAI研究など可能性がないわけでないが、国の豊かさは年々衰えていくことは自明だろう。
ぼくらが生きるこれからの時代というのは、少しずつみんなの余裕がなくなっていく時代なんだと思う。
水郡線のような採算のとれない路線は廃線を余儀なくされるだろうし、そういうものを楽しむこころのゆとりのようなものはどんどん失われて行ってしまう。
ぼくたちのあの大好きな日本の風景が少しずつ剥がれ落ちていく時代が来るのかもしれない。
では水郡線を守るために、ぼくたちに何ができるのか。
水郡線は赤字路線である。
JRも赤字を取り返す施策をとっていないわけではないが、正直どれも効果は今ひとつといったところだろう。
だからぼくからお願いがある。
あなたも水郡線に乗ってほしい。乗ったら絶対に最高の体験だってわかってもらえるはずだ。しかも、東京から5,000円とちょっとでこんな秘境まで冒険できるのだ。コスパも最高である。今度の旅行の変化球にどうだろう。都内からだったら、日帰りだってできる。
水郡線の魅力は、ボックスシートにあると思う。
このシートは、対話がよく弾む。
お菓子を片手に、語り合いたい人と語り合ってほしい。
語り合いたい人が特にいないなら、ひとりで行ったらいい。ひとりでじぶんと対話するのもはもっといい。
水郡線にはぼくが降りた矢祭山駅以外にも魅力的な駅がたくさんある。
※そばが死ぬほど美味い店があるので、探してみてね。
要するに、今度はあなたが途中下車する番なのだ。
そして、じぶんの足で歩き回って観光地は踵で味わっていただきたい。
途中下車した名前も知らない場所だったのに、今では大好きな思い出の場所になっている。
そんな体験をしてほしい。