久しぶりの「彼」
小学生や中学生の頃、
学校でのトラブルによって学校に行くことができない
いわゆる「不登校」の状態で
カウンセリングに通っていた
当時の子どもたちが大人になり
カウンセリングルームに
会いに来てくれることがある。
先日、小学生の頃から
カウンセリングをしている「彼」が、
久しぶりにカウンセリングを受けに来てくれた。
当時、小学生(10歳~12歳)
中学生(13歳~15歳)だと10年経てばもう大人だ。
小中学生の頃
「カウンセリングを受ける」という習慣や
何か悩むことがあれば
自分の気持ちを整理するために
「カウンセリング」を活用するという
方法を知っている彼ら、彼女たちは
人生の節目では
必ず、カウンセリングを受けに来てくれる。
カウンセリングを活用してくれる。
まだまだ、日本では何かあった時に
「カウンセリングへ行く」という
方法論が「当たり前」のレベルには到達していないが
彼ら、彼女たちを観ていると
カウンセリングという文化が
誰にとっても当たり前になればいいなと、
とても思う。
※ 小中学生の時
「不登校」になった理由は
ほとんどが、お友達との人間関係だ。
イジメられたことが
原因になっていることが多い。
カウンセリングルームを
訪れる子どもたちは
感受性が豊かで
察する力や気付く力が高い
そしてIQも高いと思う。
恵まれた家庭の子が多く
ご両親から大事に育てられた
子どもも多い。
集団行動の中で
誰かの(いじめる側の)
「やきもち」「嫉妬」「ねたみ」の
感情も多く原因していて
本人の問題ではなく
周りの問題である
可能性が高いと私は思っている。
でも、子どもたちは
最初、カウンセリング訪れた時
そのことは分からない。
集団の中で
否定され、排除され
子どもにとっては
その小学校のクラス
中学校の部活動の世界は
本人の「生きる世界のすべて」で
その世界で否定されたら
自分が「生きている意味」を問うこともある。
大人からしたら
「そんな狭い世界の中で物事を考えても・・・」と
思うかもしれないけれど
この時の子どもにとっては
その世界が「全て」である。
どんな世界が見ているんだろう?
カウンセラーとして
その子の生きている
世界を見せてもらいながら
本人のくれる
パズルのピースを合わせていき
パズルを組み立て
問題の本質が何だったか
一緒に考えていく時間を
長い時間をかけて行っていく。
私は、カウンセリングをして
本人が悩み始めた時間と
同じ時間くらいは
解決に時間がかかると思っている。
だから、長い時間悩んで
カウンセリングルームを訪れた
子どもは、絡まった糸をほどくのに
時間はかかる。
子どもは、大人のように
自分の思っている事を
言語化するのにも時間がかかる。
大人は、たくさんのボキャブラリーを使って
カウンセラーに自分の苦しみを
伝えてくれるけれど
子どもたちの持っている言葉の
語彙数では
なかなかニュアンスが分からないこともある。
そんな中
カウンセリングルームで
共に戦ったきた時間と歴史が
強靭な人間関係を創ると思っている。
前置きが長くなってしまったが
冒頭の「彼」の話
本題に入ろうと思う。
先日、数年ぶりに
カウンセリングにきてくれた
当時小学生、今は20代後半の彼が
昔のことを話してくれた。
あのとき「もう学校はあきらめよう」と
自分で決めたことが
本当に自分の人生で大きかった。
彼が話す話「あのとき」を
私も、ものすごく鮮明に覚えている。
当時、小学生の「彼」と出会って
長い時間をかけて
問題の根本を探り
「いじめ」があったけど
先生が見て見ぬふりをしたこと
周りの子どもたちが
助けてくれなかったこと
でも、カウンセリングを進める中で
学校に行きたいなら
「自分が強くなればいい」と
二人で答えを見つけ出し
いろいろなシュミレーションを
カウンセリングルームで考え
“戦う勇気”を作りあげていった。
周りに何かされても
自分が、負けない気持ちを持とうと。
「周りが何か言ってくるのは
周りの問題でこっちが悪いんじゃない」
「相手がいろいろと言ってくることに
反応するから、おもしろがられて、
さらに、やられるんだ」
そうか、そう思うんだね。
もう一回、学校行きたいんだね。
スモールステップから
リハビリを始めたのを覚えている。
段階をふんで
教室に入る努力をしてみた。
① まず、ランドセルをしょって
家から出てみる。
② 角のコンビニまで歩いてみる。
③ 校門まで歩いてみる・・・
こんな風に
毎日、毎日少しづつ
学校に距離を近づけて
心の距離も近づけて
学校の中に入ってみようと思った。
学校とも連携し
これだけの努力を積んで
本人が教室に入ろうとしている
学校側に注意点や
お願いしたいことを伝えて
当日を迎えた朝。
私自身もドキドキし
本人が学校から帰ってくるのを
「待つ」予定だった。
思っていたよりも早い時間に
連絡が入り、すぐに「(私に)会いたい」と
親御さんから連絡が入る。
何かあったら
学校へ行こうと思って
待機していたので
すぐに、カウンセリングルームへ
本人を連れてきてもらう。
学校行ったら
「下駄箱に靴がなかった」
泣きながら話す本人に
怒りと悔しさがこみあげてきた。
あんなに打ち合わせしたのに
担任の先生は
本人の下駄箱に
上履き(くつ)があるか?ないか?
なんで確認してくれなかったんだ。
靴がない事が問題なんじゃない
担任の先生が「待っている」ってことは
「準備してくれる」ことであって
準備してなければ
待っててもらってないって感じるんだよ
そんなこともわからないのか。
先生はそんなに忙しいのか?
本人の努力、わかってんのか?
カウンセリングルームにて
本人の見ている前で学校に電話した。
私は、自分の人生で
あんなに怒ったことがあるかと思うくらい
担任の先生を怒った。
「どんな気持ちでこれまで準備してきたかわかるか?」
「本人の気持ちを想像したことがあるか?」
「あなたが守ってくれなかったから
こんな結果になっているんだ」
先生に向かって電話口で
叫ぶ私に
目の前でいつの間にか
泣き止んでいる
本人が言った。
「先生、ありがと。もういいよ」
覚えてる
めちゃくちゃ、覚えてる。
彼に
「先生、ありがと。もういいよ」言われた
言葉が、音まで記憶に残っている。
担任の先生に向かって言いながら
私自身、自分の無力感も同時に
苦しかったのを覚えている。
このあと、彼はもう二度と
学校には行かなかった。
あの環境にはもう戻らないと決めた。
決断したんだ。
小学校も中学校も
学校へ行かないという選択をした。
一つの分岐点で
人生は、大きく変わる。
彼は、その後
海外の学校に進み
自分らしさを見つけ出した。
英語を流暢に話し
世界中に友達ができて
笑顔で日本に戻ってきた。
そして、今は、日本で大活躍する
ビジネスマンになっている。
今回の彼はカウンセリングの中で
過去を振り返り
あの選択があったから
僕の怒りをすべて
先生が担任に伝えてくれたから
もういいや、って思えた。
先生が
「どんな道を選ぶかではない
選んだ道でどれだけやるか?」って
言ってくれて
その言葉を海外にいても
苦しくてもいつも想っていた。
選んだ道でやり続けて
あの時のことが本当に自分の支えになった。
そうか、そんな風に
思ってくれていたんだ。
冷静に考えると
あの時、本人の見ている前で
学校の先生を罵倒したことは
怒りの感情を出す
本人の出せない怒りの感情を
代弁者として出す。
これは非常に効果の高い
カウンセリング方法だったかもしれない。
なぜなら
「怒りの感情は立ち直るエネルギー」で
本人は怒りを出せなくても
彼の代わりに、カウンセラーが「怒り」を
目の前で出したことによって
立ち直るエネルギーを
与えられたのかもしれない。
でも、あの時の私は
カウンセラーとして何か考えや、
その先への想いや計算があったのではなく
本当に涙が出るくらい
悔しかった。
毎日の彼の少しずつの歩みや
努力を痛いほど知っていたから
本当に悔しかった。
あっ、あの怒りは
彼の気持ちの代弁ではなく
私の立ち直るエネルギーだったのかも。
今、このnoteを書いていて
思った。
あの怒りは、
ずっと、彼の立ち直る
エネルギーだと思っていたけれど
カウンセラーの「私の怒り」
=「立ち直り」だったのかもしれない。
カウンセリングの中で
詳細に組んだ
学校へのリハビリプログラムが
木っ端みじんに
担任の先生に崩されて
私が立ち直れなかったのかも。
彼と久しぶりに会い
カウンセリングで
今の話も過去の話もすることができて
本当に幸せだった。
彼の成長と幸せは
私の人生の支えになる。
今日は、久しぶりに
彼の清々しい顔を観られて
幸せを確認できて
ただ、ただ嬉しい
その気持ちを
noteに記録したかった。