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COLD BREW 33 #はじめて切なさを覚えた日

 残像が折り重なっている。
 その席にどれ程の愛着があるのか。
 厨房内に立つ僕からすると、そのカウンター席は死角に近い。
 カウンター裏の壁面収納に、水出し珈琲COLD BREWドリッパーを格納している。必然的に、その表側には視線を走らせる習慣が出来ていた。彼女らは最も死角になる席をひとつ開けて、必ず隣に座る。
 そこを定位置にしていたのは、祐華だ。
 ヘルプで入る史華もそこを好んで座る。
 いつしか七瀬まで、同様に陣取るのだ。
 いやむしろ、七瀬こそが先駆者なのだ。
 婚約者時代から、その席の意味合いを熟知しているのだろう。
 彼女らのスツールに掛ける仕草まで、残像のように脳裏に浮かぶ。
 体幹の扱い方はそれぞれだけど、ふわりと席に収まるときには皆が軽く溜め息をつく。上目使いで中空を見つめる。
 そこまで似てなくても、いいのだが。
 残像を受け取る心は生傷が絶えない。

 ただいま、を言えど返事はない。
 独居生活に戻った古民家は寒々としていて、空疎で、切ない想いが漂っている。ほんの半年前は感じなかった剥落感だけがある。
 二人でこの古民家で過ごしたのは、三ヶ月に満たない。
 祐華が買い求めた醤油を使いきることさえ、胸にくる。
 彼女が醸造所までこだわって、通販で購入したものだった。
 二人で過ごした時間の一部が、喪失したように感じる。
 減ってゆく調味料に苛まれるのは初めての体験だった。
 おはよう、と呟いても部屋に温もりはない。
 彼女との生活で同衾だけはしなかった。だが部屋には、潤いのある体温が溶けているのを感じていた。
 
 その席に茅野七瀬が座っている。
「今日はお話があって参りました」
「はい茅野さま、電話で伺った件ですね」
 敬語を使うことで、現在の距離感をお互いに出している。加えて耳慣れない苗字だ。彼女はトートバッグから液晶タブレットを取り出した。
「祐華さんが使っていたものです。先方のご実家より弊社に返却頂いております。もう通信アクセスも切っておりますので、これは貴方にお譲りした方がいいかと思っています」
 形見分けということか。
 確かに彼女の持ち込んだものの多くは、消費財としてすり減っていくものばかりだ。僕には無用の長物であろうとも、その機器には愛着という残り香が息づいているだろう。
 視線が、つっと斜め右手に動く。
 鎧戸のある窓辺のボックス席を見下ろすように、彼女の遺作が懸架されている。
 その絵は斜めに太い線が引かれている。
 主線をやや細目の線が下支えしている。
 その交差する場所に導流帯ゼブラゾーンの意匠があるので、その線が三叉路道路の暗喩であると気づく。そんな絵だった。
 つまり画面が線で三分割されている。
 安全帯には横たわる裸の男女がある。
 分割された画面のひとつが過去。ひとつが現在を描いている。そこにある絵に、残った未来は下書きのままに残されている。
 男女の存在とその空白の歪つさに、何ともいえない緊張感と、想像を働かせる期待感とが交錯している。
 そうして茅野七瀬は口を切った。
「この絵も彼女の作品よね」
「ええ。遺作になります」
「これを弊社に頂きたいというわけではありません。ですが・・・」
「弊社のタブレットで製作されたものの著作権、といいますと差し出がましいですが。この絵の未完成部分、この絵の完成版のデータはお持ちではないでしょうか」
 返答に窮した。
 祐華の、親族だけの密葬の頃に気づいた。
 病室から送った画像ファイルがあった。発信元はipadからだったと記憶している。それには圧縮データが添付されていて、タイトルには『完全版!』という文言があった。
 その文言が彼女の肉声で蘇る。
 細くなった指が、それでも昂って打ちこむ姿が脳裏に浮かぶ。
 恐らくはその空白部分の、単に幾何学的な線の下書きに絵が入り、彩色されているのではないだろうか。
 しかし。
 僕は未だにそのファイルを開けない。ばかりか隠匿したまま、墓場にまでとさえ考えていた。
 逡巡で、微妙に間があいた。
 表情に出さぬように装っても、肌を重ねた相手には筒抜けだろう。彼女はカウンターに両肘をついて体重をかけて言い寄った。
「持っているのね。実は私、彼女の作品を世に出したいと思っているの。少なくともデジタルデータをアーカイブしておきたいの」
「それがきみにとって何の役にたつ?」
 口走って、己が浅慮さを知った。手元にあると白状したようなものだ。
「役に立つ?芸術はただ愛でるものよ。お分かり。高校の時からわたしは祐華さんのファン、信奉者なのよ」
「信奉者?」と声が尖るのを抑えきれない。
「ええ。もっと芸術的なお仕事を回せてあげれたらよかったの。だけど包装紙のデザインだったり、角あてエッジボード緩衝材のお仕事中心になってしまったけど。それは弊社の力不足でしかなかった。本当に申し訳なく思っているの」
 重い口を開いた。
「すまない。確かにデータらしきものを受け取っている。彼女の病床でも末期の頃だ。だが未だに僕もそれを開けない。最期のページを開けないでいる。申し訳ないが、ここで我儘を言わせて欲しい。これは僕だけのものにしておきたい、とさえ思っている」
 茅野七瀬は、中空に視線を泳がせてまた溜息をついた。
「そうおっしゃるだろう、とは思いました。無理にとはいいません。ではこの件はわたしだけに留めおきます」
 ですが。
 その勇気を振り絞ったらいかが。
 彼女の眼は雄弁に物語っていた。
 

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