餓 王 鋳金蟲篇 2-4
空気が薄くなった。
灌木は既に見ない。
昨日までは平原を覆う草原があったが、今や岩陰に僅かに繁茂しているのを見るだけだ。吹き抜ける風には氷雪の冷気がある。
黒毛の山牛を押し並べて進む隊商の姿もない。
空気が薄いことにカリシュマは慣れている。私も化身の身であり、爬虫類の特質を持つために代謝が低く、さほど苦痛ではない。
しかしルウ・バの表情は暗い。
身体を鎧うあの筋肉が枷になっているのだろう。彼には呼吸をゆったりとするようにと言い置いていた。
しかし昨秋は、この肉体が冬眠を始める危惧があったのに、よくぞこの峠を越えてきたものだと思う。
この小旅行もすでに道程の半ばになる。
何れ、峠の稜線にイ・ソフタの灯が見えてくるだろう。
何かが隠れている。
それは体温が見える化身の身であるからこそ、判る。
岩場の影で陰伏する体温がある。
最初は野鼠の類かと思った。
小柄な猫ほどの体躯で、肉が大層に旨い。さらに毛皮で沓を作ることもあり、岩盤が織りなすこの高地では有益な獣だ。
岩盤層の下に、母親と数匹の仔が折り重なっているかに、視えた。だが耳を澄ますとこの爬虫類の鋭敏な知覚においては、この近さなら複数の心音すら聞き分けられる。心音には濁りがあるが、その鼓動はひとつである。
複数の巨石が支え合う断崖の奥に、それは視えるし、聴こえる。
二人に小休止を言って、私は断崖を滑りその洞の正面に立った。
やはり生き物がいる、私はその隙間に手を差し入れて探った。ぐにゃりとした肉塊を探り当てたが、反撃の牙などはない。
かなり弱っていた。
衰弱した獣の生臭い腐臭がしていた。
それを右腕のみで楽々と掴みだした。
それは老境の男性の様子で、汚泥と埃が皮脂で塊として凝り固まったような姿であった。衣服はもう糸屑に過ぎず、浅黒い肌に斑点が浮いている。
外気に触れると老人は、無意識ながら何かから逃れようと両手が宙に暴れていた。
その時にはルウ・バとカリシュマは私の背後に立って、事の推移を見守っている。手元に来ると老人は、嶺山羊の股間のような猛烈な悪臭を放っている。
まだ息がある、と口走った。
しかし体温が低すぎる、とも言ったかもしれない。
わかった、とカリシュマの左掌が右肩に置かれた。
膝をついて老人の肉体をさすっていたので、仰ぎ来た少女の顔には固い意思が堅持されていた。
逡巡と懇願が貌に浮かんだのかもしれぬ、私はそれを自戒した。
カリシュマはさらりと衣服を脱いで、水分の落ちて皺ばった老人をその素肌で抱き締めた。私は折り重なるその上から、彼女の衣服をかけて保温性を確保した。
日輪はとうに沈み、漆黒となった。
露営の焚き火を無言で囲んでいる。
その断崖をルウ・バは、右肩にカリシュマ左肩に老人を担ぎ、苦も無く這い上がった。次いで彼は残雪を拾い、手壺を火にかけてそれを湯にしていた。その間に私は襤褸になった糸屑を搔き集めてお湯に浸し、それで彼の肉体を磨くように拭いていた。
幾分は汚泥臭が紛れてきた。この知覚の鋭敏さが諸刃の刃でもある。
私は玄米粉と香料を混ぜて、詠唱による浄化を行った。沸々と湧き立つ湯にいれ、粥とした。老人を抱擁して温めているカリシュマに持っていくと、食べさせたらいいのね、と娘は言う。
そうして粥を含むと口移しに、老人の唇から流し込むように飲ませていく。脇目で見ているだけで、知覚の底に鎮めた筈の腐臭が伝播して、己が顔が歪んでしまう。
なんという娘であるかと。
カリシュマのその眉が顰むことすらない。
この献身、この尊厳、この寛容。
舌を巻く思いがする。凡そ由緒正しきアーリア人すらも、これ程の高潔な魂の持ち主とは思えぬ。しかも年端もいかぬ娘である。
その瞬間である。
老人の瞳に、意識の彩りが浮かんだ。
その瞳を覆う感情が、恐怖であった。