長崎異聞 45
ふと脳裏に巌流島の決闘が浮かんだ。
橘醍醐の預るこの搦め手からは、その島は遠望できない。
だが因縁の島の放つ威風は感ずる。
この陣地こそが己が巌流島であろうかと、身震いをする。
金属の軋む音とともに、跳ね上げ橋が居留地に下りていく。それを側面から醍醐は見ている。さすがは鬼軍師、冷酷な位置に砲台を敷いている。ここからでは橋を渡る群衆を、ガトリング砲の一斉射で薙ぎ払うことができる。
如何せん。
橘醍醐は己に問う。
民を滅するのは士道に悖る。
兵が攻めてくれば寧ろ良し。
重い音を立てて、橋梁が居留地側に下り切った。
だが味方が積み上げた土嚢のために、水平面はとれない。僅かばかりの傾斜ではあるが、砲声に竦む脚では躊躇するだろう。
固唾をのんで凝視してくる視線を感じる。
槍衾の如くに鋭利な目線が、訴えている。
群衆は一瞬どよめいたが、動けないのだ。
この鋳鉄の砲門が睨みつけているからだ。
黒服に白服の群れを、無遠慮に割って入る者らがいる。蒼い軍服である。肩には銃を掛けている。腰には軍刀を佩いているようだ。
群衆を押し除けて、まずはその猛々しき暴漢が橋に足を掛けた。醍醐の血流が滾り、右手を跳ね上げた。
その刹那、夜空を炸裂音が切り裂いた。
瞬間には橘醍醐は駆けている。
土嚢に飛び乗った。
既に抜刀している。
鞘は背後に捨てた。
気合を、迸らせた。
大海が渦巻く如く。
睨み合いの対峙は続いていた。
蒼い軍服らは動けない、ガトリング砲の威嚇射撃を見たからだ。さらにはあの舞踏会での、醍醐の剣筋を知る者もおろう。迂闊に近づけば胴体を両断される、と。
醍醐は橋には足を掛けていない。
未だ土嚢の上のままだ。
不用意には踏み込めぬ。
もし跳ね上げ橋を上げられたら、即ち敵方に落ちるであろう。
長板橋の張飛の如く、単騎で仏蘭西兵を睨み上げているのだ。
彼の立ち位置では、東マルセイユ、門司港が漁り火のように燃えているのが、視える。砲撃も続いている。爆発音にも慣れてくるものだ。
耳障りな叱咤する声が聴こえた。
兵には存在しない肥大した腹をした男が、哀れなほどに着崩れたまま押し退けてきた。尊大な、見知った御仁である。
醍醐の唇が歪んだ。
いや微笑みの形だ。
ダルボン卿、連綿と続く貴族だと聞いた。
前線にでも立っていたのであろう。その軍服は硝煙に燻り、火の粉を浴びたらしく頬には火傷の痕がある。
醍醐は腰を落とした。
斬るべきである。
将を獲るべきである。
そして戦意を砕き軍兵の武装解除を行い、無辜の民草を容認する。だがそれを如何に伝えるべきや。
凛と響く声がした。
鈴が鳴るような声。
背後から、である。
睥睨している醍醐は一瞥もできぬ。
が、振り返らずとも判る。ユーリアの声音である。
その声にダルボン卿を始め、仏蘭西兵の表情が凍り付いた。
天上からの音曲の如き涼やかな声が、慈愛をもち威厳を放ち語り掛ける。
Vous êtes des soldats. Les soldats devraient avoir leur place.
Soyez fier de votre titre de chevalier.
《貴方たちは兵士です。兵士にはその場所があるはずです。騎士の誇りをもちなさい》
彼女はかく奏じたと、事後に聞いた。
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