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人魚の涙 22

 水面から清浄な光が降っている。
 透明な蒼色に天使が舞っている。
 水底に巨大な魚体の下半身を持った少女が、奇妙な表情でゆらりと浮かんでいる。黒髪が広がって、そこに網のように広がっている。
 人魚がいる、信じられないが目前に、ある。
 ごぼりと呼気が漏れる。
 気泡が繋ぎあいながら水面へと上がっていく。
 人魚はそれをじっと凝視していた。
 彼女の視線には驚きと戸惑いが入り交じり、好奇の眼もあった。さらにじろじろと目線を送ってくる。人魚にとっては海女の衣服と両脚には興味がつきないように見えた。
 海女の呼吸は続かなくなってきた。
 その深度では水圧もあって、酷い頭痛を耐えていた。
 人魚にはそれがない。
 えら呼吸?でもしているのだろうか。
 急に動いたら襲われるのだろうか。
 その人魚から目を逸らさないように、慎重に水を蹴って浮上しはじめた。彼女のフィンの浮上速度に対して、人魚はひと蹴りで追いついてしまう。
 互いに身を入れ替えながら螺旋らせん状に浮上している。はた目には遊んでいるように見えるかもしれない。
 伊勢から出稼ぎに来た海女としては、必死だった。
 妖怪なのか、妖精なのか、得体がしれないものから逃れたい一心で、風聞にある海神さまの加護を祈った。
 水面が手の届きそうになったとき。
 人魚の牙が、自分の肩にめり込むのを感じた。
 肩が熱さがあり、痛みはまだなかった。
 水に紅い帯が垂直に流れた。   
 
 橘の話はそこで途切れた。
「噛まれたのか、その海女さんは?」
 正直そこは信じられない。
 あの彼女が水底から浮かび上がってくる情景はよく理解できる。しかしそれほど獣じみた、攻撃的な素振りを見たことはない。
「そうだな。君んとこの古いカルテにあるんじゃないかな。昭和40年代後半だと思う。50年にはいってないかな、まあよくわからないけど」
 確かに乳房があった、それは哺乳類ということだ。
 私の記憶では人魚の尾鰭は水平方向についている。それに対して魚類のは垂直方向だ。どちらも哺乳類としての特徴だ。
「だけどな、この件で人魚は人間を喰うというウワサの根源になったと思うがね」
「神門さんはこの件に詳しいかな?」
 ダイビングショップを営んでいる、潮焼けしたような赤ら顔の男だった。
「多分知らんじゃろう。あのひとは移住してきてまだ10年くらいじゃないか」
 後で訪ねてみようと思い、席を立った。
「すまん、時間を取らせたな」
「構わんよ、この資料館に詰めていても客なんて少ないからな。また時間あったらきてくれよ」
 そう言って物寂しそうに旧友は笑った。



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