紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム(3)(2004)
3 植物化するポストモダン─あるいはポストモダンの彼方
東浩紀は、『動物化するポストモダン』において、アレクサンドル・コジューヴを援用しつつ、ポストモダンを「動物」と捉えている。コジューヴは「歴史の終わり」の後、人々には二つの生き方しか残されていないと主張する。一つはアメリカ的生活様式の追求、すなわち「動物への回帰」であり、もう一つは日本的な「スノビズム」である。
コジューヴは戦後アメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んでいる。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、すなわち環境との闘争を経なければならない。一方、動物はつねに自然と協調して生きている。消費者の「ニーズ」に応える商品に囲まれ、メディアが提供する流行にのっているアメリカの消費社会はもはや「人間的」ではなく、「動物的」でしかない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」(コジューヴ『ヘーゲル読解入門』)。
I'm ready
I'm ready for the laughing gas
I'm ready
I'm ready for what's next
I'm ready to duck
I'm ready to dive
I'm ready to say
I'm glad to be alive
I'm ready
I'm ready for the push
The cool of the night
The warmth of the breeze
I'll be crawling 'round
On my hands and knees
Just down the line...Zoo Station
Gotta make it on time...Zoo Station
I'm ready
I'm ready for the gridlock
I'm ready...to take it to the street
I'm ready for the shuffle
Ready for the deal
Ready to let go of the steering wheel
I'm ready
Ready for the crush
(She's just down the line)...Zoo Station
(Got to make it on time)...Zoo Station
Alright, alright, alright, alright, alright
It's alright, it's alright, it's alright, It's alright
Hey baby, hey baby, hey baby, hey baby
It's alright, it's alright
(Alright, you can turn it up)
Time is a train
Makes the future the past
Leaves you standing in the station
Your face pressed up against the glass
I'm just down the line from your love...(Zoo Station)
You know I'm under the sign...(Zoo Station)
I've gotta make it on time
Make it on time...(Zoo Station)
That's alright...(Zoo Station)
Just two stops down the line...(Zoo Station)
Just a stop down the line...
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This song is incorrect and I want to send corrections.
(U2 “Zoo Station”)
「スノビズム」は、環境を否定する理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動、すなわち自然との闘争を経なければならない。ところが、「スノビズム」は、そうした環境を否定する実質的な理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」、すなわち儀礼的に、それを否定する行動様式である。スノッブは、「動物」と違って、環境と調和することを拒否する。否定の契機がなかったとしても、意図的に、環境を否定し、形式的な対立をつくりだし、その対立に耽溺する。けれども、これはあくまで儀礼でしかなく、歴史を動かす力にはならない。
東浩紀は言及していないけれども、スノビズムに対抗する姿勢としてダンディズムがある。シャルル・ボードレールの『現代生活の中の画家』によると、ダンディーは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主制がまだ全能ではなく、貴族制がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンス頽廃期における英雄主義の最後の輝き」である。貴族制が完全に後退した20世紀において、スノビズムがあまりに凡庸であったとしても、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムのポーズ自体凡庸なスノビズムであろう。
また、コジュ―ヴの「動物」はJ・M・ケインズが『一般理論』の中で提示した「アニマル・スピリット」を踏まえている。ケインズは、同時代の投資家を何かしていないと落ち着かない「アニマル・スピリット」の持ち主と評する。つまり、「動物」はモダンの比喩である。これは非常に有名なので、知らないとしたら、その論者はモグリだ。『動物化するポストモダン』と題する本を公表するなど無知は無恥であるとその作者を揶揄する人も少なくないだろう。
ドゥルーズ=ガタリが「リゾーム」の比喩を用いていたことを思い出そう。ポストモダンは「動物」ではなく、「植物」と考えるべきである。「リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!線を作れ、決して点を作るな!スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえ場を動かぬときでも!幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな!正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな!ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『リゾーム』)。ポストモダンは決定不能的なものが多方向的・重層的に拡散し、相互に横断し合いながら生成を続けるこういったリゾーム状の場にほかならない。
すべての生物は自己複製する生成であるが、動物は老い、死ぬけれども、植物は、動物の意味では、不老不死である。植物においては死や生の概念が異なり、動物的な観点では、生きているとも死んでいるとも言えない。死は、有性生殖と共に、生じる。有性生殖では別々の遺伝子が混合される以上、純粋には複製ではない。細胞は有性生殖によって若返る。一方、単細胞生物は自分と同じ細胞を複製していくため、すべてが自分自身であるから、死は存在しない。原核生物は無限に分裂できる。オリジナルも、コピーも、同様に、存在しない。一種のファイルである。“In the midst of death we are in life”(James Joyce “Ulysses”).ポストモダンは、こういった植物や単細胞生物のように、死や老いの決定不能性に到達している。
ドゥルーズ=ガタリは「プレモダン」を「樹木的(アルブル)」と譬えている。プレモダンは、確かに、樹木的な植物である。神は死と再生のヴィジョンを通じて永遠を人々に意識させる。動物では、生きた細胞によって成り立っているのに対して、樹木は、地面に生えている時点で、大部分が死んだ細胞で構成されている。縄文杉の中心は腐ってなくなっている場合が多いが、成長を続けている。植物は、生きている限り、成長を続ける。成長の限界を持たず、老いない。そのため、切り出されても、木材は長持ちする。だから、「アルブル」はプレモダンにおけるたんに階層的な秩序の系統樹以上の意味を持っている。
モダンは、プレモダンを否定するために、動物化する。ヒトはサルから進化したのであり、神を殺さなければならない。しかし、ポストモダンは、モダンとは違い、プレモダンに対する抵抗感がない。プレモダンを蘇らせる。ただし、樹木ではなく、パロディとして、雑草のようなリゾーム的な植物として具現する。「雑草は樹木よりずっと小さな種子を作りますが、何年も土の中に生き残って少しずつ発芽するので、草を取っても取ってもなかなか根絶やしにできません」(鈴木英治『植物はなぜ5000年も生きるのか』)。
タイの首都バンコクは、正確には、「クルンテープマハナコーンアモーンラッタナコーシン・マヒン・タラアユッタヤー・マハーディロッカポップ・ノッパラッテナ・ラーチャタニーブリーロム・ウドンラーチャニウェットッマハー・サターン・アモーンラピーンアワターンサティット・サッカ・タットティヤウィサヌカムプラシット」であり、その意味は「天使の都、偉大な都、エメラルドの仏陀の住む都、インドラ神の住む信仰篤きアユタヤの都、九つの宝石を授けられた世界の大いなる都、神の化身が住まわれる天国の様な固き王宮の幸多き都、インドラ神によって与えられヴィシュヌ神によって造られた都」である。これは、そのリゾーム的な長さの点で、ポストモダンであると言わねばなるまい。
Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch.
Adolph Blaine Charles David Earl Frederick Gerald Hubert Irvin John Kenneth Lloyd Martin Nero Oliver Paul Quincy Randolph Sherman Thomas Uncas Victor William Xerxes Yancy Zeus Wolfeschlegelsteinhausenbergerdorff, Senior.
寿限無寿限無五劫の摺り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る所に住む所ヤブラコウジのブラコウジパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助。
リゾーム的なクレオソートブッシュは1万1700年以上も生き続けている。「植物の分裂細胞はすべてが次世代に遺伝子を伝え得るようにできているために、老化が起こりません」(『植物はなぜ5000年も生きるのか』)。植物では、受粉ではなく、種子が発芽したときを一生の始まりとされている。種子のまま1万年以上も休眠した後に発芽した例もある。しかも、植物は同じ場所で新旧の細胞が交代するわけではなく、古い細胞の外側に新しい細胞が付け加わる。「根は生き長らえた死者である(La racine est le ort vivant)」(ガストン・バシュラール)。
レオナード・ヘイフリックは、1961年、正常な細胞はある回数分裂すると、それ以上分裂しなくなり、死んでしまうことを発見する。寿命は「ヘイスリックの限界」、すなわち細胞の分裂回数のプログラムと不可分の関係にある。植物は、体細胞と生殖細胞の分化が遅いため、テロメラーゼ酵素が生殖細胞以外にも確認できるため、クローンが容易にできる。樹齢に関係なく、原則的に──いかなるものにも、例外はある──、葉も老化しない。植物の生殖能力は老化しない。寿命や死は個体とは何かという問に収斂されるのであって、植物はクローンによって世代交代を繰り返せる。
ポストモダンは過去を自由に引用する。プレモダンだけでなく、モダンもパロディ化している。グレゴール・ヨハン・メンデルがえんどう豆を使った交雑実験からメンデルの法則を導き出したように、ゲノムの点から見れば、動物も植物も生物の範疇に収められる。すべての生物は非線形非平衡系の開かれた生成である。
植物に限らず、動物の細胞にも不死の常態に陥る場合がある。癌化した細胞は不死化する。患者自身が亡くなった後でも、栄養さえ与えて培養すれば、無限に生き続けられる。不死化には、さまざまな要因が関係していると考えられ、活発に研究されているけれども、その一つとしてDNA合成に伴うテロメア合成があげられる。細胞のDNAの端にテロメアと呼ばれる部分があるが、細胞分裂に先立つDNA合成の際に、テロメアの一部が合成されないため、細胞分裂の度に、テロメアが短くなっていき、ある程度まで短くなると、遺伝子全体の合成ができなくなる。「正常細胞ではテロメアが分裂の度に短くなりますが、癌細胞ではテロメラーゼという酵素が発現して、テロメアが短くならないように合成しています。そのために、何度でも分裂ができるのです」(小城勝相『生命にとって酸素とは何か』)。癌細胞単体では生きることはできない以上、それは生きているとも死んでいるとも言えない。癌化した動物の細胞は植物化する。ポストモダンは、ある意味で、癌化したモダンである。
ポストモダンにおいて、善悪や真偽、美醜、新旧、生死も決定不能になっている。従って、ポストモダンは植物化していく。