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紙と饗宴─ポストモダンとニュー・アカデミズム(1)(2004)

紙と饗宴
─ポストモダンとニュー・アカデミズム
Saven Satow
Jul. 28, 2004

“The next best thing to saying a good thing yourself, is to quote one”.
Ralph Waldo Emerson

1 なんとなく、ポストモダン─モードとしての
 「ポストモダン(Postmodern)」はファッショナブルで知的な雰囲気を漂わせる1980年代のモードである。「ポストモダン」を冠した数多くの書籍が出版され、それを論じることはカフェバーにおいて欠かせない態度である。こうした時代では、86年から始まったテレビ・ドラマ『俺がハマーだ!(Sledge Hammer!)』と並ぶ名作と名高い映画『史上最悪のボートレース ウハウハザブーン(Up The Creek)』(1984)が劇場未公開だったことも不思議ではない。

 けれども、1990年代に入ると、徐々に、ポストモダンを口にするのは、テクノ・ポップやボディー・コンシャスのスーツと同様、時代遅れと見なされるようになる。民衆がベルリンの壁を破壊したことを象徴に、東西冷戦構造が崩壊し、多種多様なエスニック・グループが声を上げ始め、世界的に、自閉的で狭量な原理主義や極右勢力、新保守主義、暴力主義が台頭する。これらは一定の支持を獲得し、政権を担ったケースもあるものの、既存の政治・経済・文化に対する抗議にすぎない。実際の社会は非線形的であり、そういった反動的な発想では理解できないことはすぐに察しがつく。流行が終わって、逆に、ポストモダン的認識は人々の間に定着している。

 「ぼくは今でもわりに、ポストモダンが好きです」と告げる森毅は、『ゆきあたりばったり文学談義』において、ポストモダンについて次のように述べている。

 だからこれは悪で、これは善だというふうに、二元論的になるのはモダンの思想だと思うのです。モダンの思想では、悪をどんどん取り除いていって、一つのシステムを追求していくのがいい、そうすれば、どんどん進歩し、成長していくだろうという。でも今は全体のネットワーク的なものは何かということが問題なのです。ぼくはポストモダンというのを、そういう視点で見ているんです。

 モダンの発想は、トム・クランシーの小説の世界のように、素朴な二項対立である。彼の小説の愛読者が合衆国の軍人に多いというのは同国の政治を考える際には参考になるだろう。これと逆に、ポストモダンが複雑さや多様さへの挑戦であるとすれば、それは非線形認識の発展とパラレルである。アイザック・ニュートンは万有引力の法則と運動方程式を使って、2体問題を鮮やかに解いている。それは太陽と1個の惑星をおのおの質店と見なし、この2点が万有引力によって相互作用する際の運動方程式の解を調べるものである。ところが、三つの任意の質量の天体が互いの間に働く引力によってどのような運動を示すのかを求めることを3体問題と呼ぶが、一般的に、解析的に解を導き出すのは不可能であり、コンピュータによる数値計算に頼らなければならない。これは典型的なカオスであって、本格的に研究され始めたのはパソコンが普及してからであり、ポストモダンの伝播とほぼ同時期である。細分化・専門化が進んだ現代において、ポストモダンは、学際的で、非線形現象を扱うカオス学同様、それらを全体的に見直す視点を与え、多様性・複雑性との共生というわけだ。ポストモダンは、モダンがインディペンデントを志向したとすれば、パラサイトである。

 ポストモダニズムは、そうと呼ばれていなかったものの、1950年代頃から、建築・文学・哲学などの領域に登場し始めている。モダニズムが世界各地を横断する同時代的かつ明確な方向性を持った運動であったのに対し、ポストモダニズムは拡散する現象である。モダニズムは、伝統と対抗しつつ、芸術を単一な原理にまで純化し、統一的意味を表現する一元的体系の構築を目指していたけれども、ポストモダニズムは、現代ではそうした絶対的な中心を見出すことは不可能である以上、意味や価値の多元性を主張する。そのため、過去との断絶を強調した前者と異なり、後者は進歩主義と技術革新の要求に反対し、歴史と伝統への回帰も示している。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の中で、精神が「ラクダ」から「ライオン」へと変わり、さらに「幼な子」に至るという三段の変化を遂げると語っているが、それぞれプレモダン、モダン、ポストモダンに対応するだろう。

わが兄弟たちよ! なんのために精神においてライオンが必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
新しい価値を創造する、──それはライオンにもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること──これはライオンの力でなければできない。
自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためにはライオンが必要なのだ。
新しい価値を築くための権利を獲得すること──これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のためにライオンが必要なのである。
しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。ライオンでさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取するライオンが、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
(『ツァラトゥストゥラ』)

 よく知られている通り、イギリスの建築批評家チャールズ・ジェンクスは、『ポストモダニズムの建築言語』(1977)において、初めて、「ポストモダニズム(Postmodernism)」という概念を使う。彼はポストモダニズムの建築には少なくとも二つの意味、すなわち建築のレベルと生活のレベルを伝達するから、意味は多重であると主張する。ただ、これは、アメリカの建築家ロバート・ベンチューリの著書『建築の多様性と対立性』(1966)によって先取りされている。ポストモダニズムは、ル・コルビュジエことシャルル・エドゥアール・ジャンヌレ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエといったモダニストの「機能主義(Functionalism)」に異議を申し立て、歴史的様式の遊戯的な引用と自由な折衷とを唱える。

 もっとも、これにはイノベーションの果たした役割が大きい。徐々に、巨大なガラスを製作する技術が確立され、その上、コンパクトで強力なエアコンが開発されて、寒冷地にも、砂漠にも、熱帯にも、気候をあまり配慮する必要がなくなる。こうした技術革新により、今までとは比較にならないほど、自由な建物を建てられるようになっている。

 さまざまな歴史的素材を自由に引用し、それをコラージュによって多元的に構成したポストモダニズム建築の代表例は、マイケル・グレーブスのポートランド・ビルディング(1982)、磯崎新のつくばセンタービル(1983)などがある。それらはギリシアやローマ、ゴシックといった歴史的様式が等価的に組み合わされている。


 ポストモダニズムは、建築にとどまらず、反体系主義と多元的思考として、すぐに他の領域にも拡大する。近代哲学・文学は自然科学を理想として、「理性」や「自我」といった単一な原理から演繹的に導き出された体系の構築を試みてきたものの、19世紀後半以降の産業革命の登場と共に社会が複雑化し、科学が専門分化していくにつれ、多様な知識を単一な体系に収納することは不可能であるだけでなく、生産的な認識活動を阻害するという哲学的反省が生まれる。それは体系に合致しないものは存在すべきではないとして排除されてしまうホロコーストに帰着する。この歴史を踏まえ、多くの文学者がポストモダン文学と呼ばれる作品を書き始める。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、1944年、『伝奇集』において、古今東西の神話や神学や哲学を非体系的に引用する手法を用いて、円環的時間の宇宙、あるいは迷宮としての世界を描き出す。他にも、トマス・ピンチョンやウンベルト・エーコ、フリオ・コルタサル、マリオ・バルガス・リョサなどがポストモダニズムを具現化した作品を著わしている。さらに、映画『シー・デビル(She-Devil)』(1989)に登場するメリー・フィッシャーもポストモダニズム的手法を取り入れた作家の一人に数えるべきだし、エドワード・ウッド・ジュニアの『エド・ウッドのハリウッドで成功する100の方法(Hollywood Rat Race)』がポストモダニズムの傑作であると付け加えなければならない。「もちろんエド・ウッドは映画だけでなく文章においてもとてつもなく個性的だった。ウッドの文章にはいくつか目立って異常な特徴がある。たとえばしつこく冗長なくりかえしと無意味な羅列。たぶんウッドは華麗な技巧と思っているのだろうが、どう見ても無意味なものである。あるいは一向に具体性を帯びないまま延々と続く文章。指示代名詞ばかりの曖昧模糊にして五里霧中な世界で無名俳優たち(ウッドが知っている唯一のハリウッド)のエピソードが語られる中、ウッドは呪詛と悲嘆をくりかえすのである」(柳下毅一郎『オレにやらせろ』)。

 こうしたポストモダン現象にはある歴史的状況が可能にしている。ジャン・フランソワ・リオタールは、『ポストモダンの条件』(1979)において、ポストモダンを「一九世紀末に端を発する、科学、文学、芸術の活動規則に影響を与えたさまざまな変化以後の文化の状態」と定義する。現代の文化状況の特徴は、理性の進歩や自由、革命、人間の解放といった近代の信念を支えてきた「大きな物語」が効力を喪失した点である。ポストモダンは、新たな大きな物語を考案するのではなく、多様化と差異を受け入れ、世界を構成する諸要素の異質性を感受し、今までとは別の構成規則を求める。「大きな物語」は方向性を持った運動だったが、「大きな物語」の喪失という意識は現象にほかならない。

 もっとも、これはイマヌエル・カントの義務論をジェレミー・ベンサムの功利主義で批判しているようなものだ。後に述べる通り、ポストモダニズムは倫理性の希薄なベンサム主義である。ミシェル・フーコーのパノプティコン批判によりポスト構造主義者はベンサムを仮想敵の一人と見なしている。しかし、実際には彼らはベンサム主義者で、その姿は道化でさえある。

 日本の話をしよう。1980年、田中康夫が『なんとなく、クリスタル』を発表する。日本のポストモダンは「一九八〇年東京」を描いたこの作品を徴候としている。全体は、モデルをしている女子大生由利を主人公にした私小説の本文、四四二に及ぶ註、人口問題審議会「出生力動向に関する特別委員会報告」と「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度版厚生白書)」の三つの部分によって構成されている。本文で現代の若者の生活を描き、註で、ブランドやディスコなど登場してくるものを解説、若者に対する非難を批判すると同時に、若者にも苦言を呈し、さらに、最後の二つの表により、少子高齢化が急激に進み、次作で彼が命名した「ブリリアントな午後」にある日本社会もいずれ夕暮れが訪れると警告している。

 こうした80年代を用意したのは、日本の場合、70年代であろう。日本経済の二桁成長は1974年に終わるが、70年代、アメリカの排ガス規制を世界で最も早く達成した結果、コンパクトな日本車が輸出され、大馬力のマッスル・カーに代わり、アメリカの道路を占めるようになる。また、Made in Japanの家電製品は、技術性と安定性において、他国に優位さを獲得し、世界を席巻する。80年代に入り、日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国に成長して、日本の自動車産業はビッグ・スリーを脅かし、日米の貿易摩擦が深刻化する。そのため、プラザ合意が結ばれて円高ドル安が誘導され、80年代後半、バブル経済が急激に膨張していく。

 田中康夫は、現代ではすべてが記号化し、等価の時代になっていると宣告する。価値はア・プリオリではなく、社会的・時代的背景の下、その都度、個人的な欲求・欲望に基づいて構成される。一切が無価値なのではない。ヒエラルキーが崩壊し、すべてが等価に置かれ、アナ-キーに、クロスオーバーしているのが「ぼくたちの時代」だと田中康夫は訴える。

 こうした主張は、実は、ジェレミー・ベンサムが『道徳および立法の諸原理序説』においてすでに行っている。快の量が同じであれば、子どもの他愛もないプッシュピン遊びと高尚な詩も等価である。彼の快楽計算はこの原理に基づいている。ただし、ベンサムはそうした幸福の社会的増台を近代の目標と説く。近代では、政教分離によって価値観の選択が個人に委ねられている。しかし、価値観は内容が異なっていても、幸福を求め、不幸を避けることで共通している。それらは快・不快において差がないのだから、総量を計算できる。社会の目的は幸福の総量を増大させ、不幸を減少させることである。例えば、同性愛者への差別がなくなれば、彼らの幸福が増えるので、社会のそれも増大する。そうした行為は、そのため、倫理的である。ベンサムはすべてが投下だと言って終えるのではなく、このような倫理を導き出す。田中康夫は、すべてが等価と言いつつ、「気分」という快感の増加を個人の価値観に見出している。その意味で、彼はベンサムに接近している。けれども、彼はそれを社会的目的にまでは拡張しない。ポストモダニズムは倫理性の希薄な功利主義の実践である。

 狭義のポストモダニズムはポストモダン的状況を表象する言説の現象である。その上、日本は、38度線というvisibleな問題がある朝鮮半島と違い、諸問題がinvisibleであり、作家はそれを描く繊細さを持たなければならない。「欲望というものは機械であり、諸機械の総合であり、機械的<仕組み>である。―つまり欲望する諸機械である。欲望は生産の秩序に属しており、一切の生産は欲望する生産であるとともに社会的生産でもある。だからわれわれは精神分析がこの生産の秩序を押しつぶし、この秩序を表象の中へ押し戻したことを非難するのである。…〔精神分析のいう〕無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法律を信じている」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』)。しかし、その社会も急激に進む少子高齢化によって変化せざるを得ないという田中康夫の指摘は現在も有効である。

 高度に発達した消費社会ではすべてが商品化される。神も例外ではない。神が生きていても、死んでいても、商品にはならない。フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を宣言したが、ポストモダンにおいて、神の死は決定不能に置かれることになる。

 こういった田中康夫の異議申し立ては、少数を除いた既存の文学者・編集者・ジャーナリストから糾弾される。だが、高度消費社会とポストモダニズム的状況が融合した時代の中、次々に共鳴する作家がデビューする。それは、モダニズムのような運動ではなく、現象としての思想である。ポストモダニズムは、ポストモダン的状況に対して、ユーモラスな姿勢をとる。1982年、高橋源一郎が『さようなら、ギャングたち』、翌年には、島田雅彦が『やさしいサヨクのための喜遊曲』、さらに、84、小林恭二が『電話男』を公表する。小説の他にも、83年に浅田彰が『構造と力』、中沢新一が『チベットのモーツァルト』により登場している。特に、『構造と力』は思想書として類を見ない売り上げを記録する。浅田彰と中沢新一に代表される理論家は「ニュー・アカデミズム」と呼ばれ、先行世代から反発されながら、若者を中心に受容される。

 ポストモダン文学は、全般的に、理論志向が強く、新たな方法を携えて日本文学にやってきた越境者である。島田雅彦は現代ロシア小説、高橋源一郎は現代詩、小林恭二は現代俳句、ニュー・アカデミズムはポスト構造主義に強く影響されている。ポストモダン文学は、そのラディカルなアナーキズムによって、先行文学との非連続性が強調されるため、日本文学の後継への期待をこめて作家に与えられる芥川賞とは縁遠い状況になっている。日本の文学賞は、これ以降、完全に形骸化する。「<それ>は作動している。ときには流れるように、ときには時々止まりながら、いたる所で<それ>は作動している。<それ>は呼吸し、<それ>は熱を出し、<それ>は食べる。<それ>は大便をし、<それ>は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらを一まとめに総称して<それ>と呼んでしまったことは、なんたる誤りであることか。いたるところでこれらは種々の諸機械なのである。…乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、肛門機械であるのか、話す機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起るのを決めかねているのだ)」(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』)。

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