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紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム(7)(2004)

7 テレフォン——ハイデガーの呪縛から逃れ出るための
 シンポジウムはおしゃべり、情報の交換に意義がある。おしゃべりは、今では、掲示板・Eメール・チャットなどによって、偶然に、未知の人物と国境を超えてすることが可能になっている。おしゃべりがネット社会の最大の貢献である。「I LOVE YOU.vbs」の製作者として知られるオネル・デグスマンは、「技術は全部インターネットで学んで、ネット仲間とのチャットで磨いた。学校で教わった知識なんて10%だけだ」と言っている。彼はフィリピンのコンピュータ単科大学の学生だったが、「パスワードの盗用方法」という卒論を書いたために、卒業できなくなる。彼には相当ショックだったようで、あのウィルスのプログラムに「学校に行くのは大嫌い」と書いている。落第生のつくったウィルスは、2000年5月、わずか2日間で、4500万台のコンピュータに感染する。グローバル・ヴィレッジのおしゃべりは熱力学第二法則と初期値敏感性を世界に知らしめる。

 サイバー・スペースはペーパーの権威を時代遅れにし、シンポジウム・アカデミズムに適している。ペーパーは、アカデミズム自身の保存として機能し、結果のみ公開する。他方、シンポジウムは過程も公開する。ペーパー・アカデミズムがテキストだとすると、シンポジウム・アカデミズムは、おしゃべりの過程で話題が飛ぶことがあるように、ハイパーテキストであろう。プレプリント・サーバの活況は。シンポジウムのペーパーへの浸食である。

 モダニズムの時代に、最も影響力があった哲学者としてマルティン・ハイデガーが上げられる。彼はおしゃべりが蔓延し、大衆化していく社会を厳しく批判している。

 ハイデガーの『存在と時間』によると、人間存在はたんなる「主体」ではなく、「他者と共なる存在」であり、「世人であること」は「本来的」な存在から「頽落」していることを意味する。「人間存在の本質」は「現」の本質、すなわち「情状性」・「了解」・「語り」の三つの契機によって取り出される。

 ハイデガーは「平均的日常」における人間存在はすでに「頽落」していると主張する。「頽落」には「空談」・「好奇心」・「曖昧性」の三つの性格がある。人間存在は他者と語り合う。「語り」において、人間の実存は他者に向って「開放」されている。ところが、日常的には、「語り」を持たない。「空談」は「語り」が本来的ではなく、頽落形態である。また、「空談」はおしゃべり、井戸端会議である。同様に、「好奇心」は「了解」にともなう「視」の頽落形態である。「了解」は「情状性」を受けとることであり、それを出発点として、人間存在は「視」にある状態から「ありうる」へ「めがける」、「企投」する。

 しかし、「平均的日常」では、目新しく、面白いことへの「好奇心」にかられ、「空談」に明け暮れている。「好奇心」は野次馬根性である。「曖昧性」は「了解」の頽落形態である。何か社会的事件や出来事が起きると、原因を追求する。誰もがそれについて問題を感じられる。だが、それは思い込みにすぎない。実存に固有の「ありうる」へとめがけていないからだ。

 もっとも、ハイデガーの「平均的日常」批判こそが「曖昧性」である。と言うのも、誰もがそう論じられるからである。彼は「本来性」=「非本来性」の二項対立を導入し、現代社会は非本来的な状態にあると憂う。ハイデガーの哲学は、この社会は悪の状態にあるから、浄化しなければならないというナチズムや原理主義的思想につながりかねない。「ひところ言われた表現では、目的合理性(俗)でも価値合理性(聖)でもなく、それは無償性(遊び)に属する。なんの目的もなく、つい持ってしまうから知的好奇心なのだ。持てと言われようと、持つなと言われようと、ともかく知的好奇心を持つのは、その人の本性による。そして、その人の個性によってさまざまなタイプがある」(森毅『知的好奇心は人生のいろどり』)。

 イマヌエル・カントにとって、道徳は哲学的願望であり、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルにとって、人間が社会的存在であることは自明である。ハイデガーは、人間が社会的存在であることが怪しくなっている時代において、超越性に頼らず、生を価値付けられる道徳を模索するが、「平均的日常」から出発しない。代わりに、哲学のギリシア性と森の生活というゲルマン的なるものへの回帰を夢見る。彼は、そのため、グレコ=ローマン的なるものをゲルマンに奇妙に結びつけたナチズムに傾倒していく。

 けれども、ハイデガーを克服するために、「頽落」の突き詰め、すなわちニヒリズムの極限を提案することはできない。ポストモダンにおいて、人間は「頽落」しきれない。極限は、数列や級数が示している通り、仮想的に想定できる。ルネ・デカルトは、方法的懐疑、すなわち懐疑の極限によって、コギトを見出している。極限は近代的方法であり、極限概念の発見によって、微積分を含めた解析学は飛躍的に発展する。デカルトが解析学の創始者であるのはこの極限の発見による。だとするなら、ポストモダンが極限化することはありえない。「平均的日常」に見られる現象のほとんどは非線形に属している。こういった現象に対して極限化は有効ではない。別の態度が必要となる。

 シンポジウム・アカデミズムは「頽落」をユーモラスに尊重する。シンポジウムは真理を追究しない。「平均的日常」では、問題解決として、真理ではなく、間主観の方が重要だからだ。森毅がニュー・アカデミズムを「六本木と本郷のクロスオーバー」と呼んだ通り、「平均的日常」から出発する。ニュー・アカデミズムはおしゃべりを肯定する。ポストモダンにおける倫理である共生の基盤をおしゃべりに見出している。

 こうしたおしゃべりのポストモダンは、坂本龍一と高橋悠治が1984年に魅力的な『長電話』を刊行しているように、電話的=双方向会話的世界と見なせよう。携帯電話はポストモダン的風景には欠かせない。

 電話に人々はおしゃべりの道具としての可能性を見出している。電話は1870年代に新たなビジネス・チャンスと捉えられるようになる。電話会社は、当初、電話がニューヨークなど大都市から広まっていくだろうと予想し、農村部を後回しにして、マーケッティング戦略を立てている。ところが、電話が最初に普及したのは、彼らが想定していなかった中西部の農村部である。家と家の間が遠く、地域のコミュニティを無ズ美つけられる電話が情報交換には便利だったからである。電話に先行して普及していたのは電信で、それは、株価やアポなど必要最低限の情報のやりとりに使われている。電信の延長と見られていた電話はまだ雑音が多く、電信と違い、情報を記録できない理由から敬遠される。地方では、そんなことは考えず、電話でおしゃべりを楽しんでいる。1880年代になって、欧米の大都市で電話が知られるようになるが、それは有線放送としてである。電話会社は契約者に、現在のインターネット・ライブのように、市内の劇場公演や教会のミサを中継している。

 さらに、電信の配達人は男性であったのに対し、電話の交換手は女性が採用される。最初は男性が使われていたが、飽きっぽく、言葉遣いが乱暴で、不向きである。女性たちはたんに電話の交換をしているだけでなく、聞かれれば、地域の出来事から選挙の結果に至るまでさまざまな情報も提供している。機転のきく交換手とのおしゃべりもその頃の電話の魅力である。後に、プライバシーの考えが強まり、彼女たちの声や応対は規格化される。それが確立していく中、ビジネスとして以上に、距離を超えた友人や家族とのおしゃべりの道具として電話が定着していく。アメリカの電話会社も、大衆文化が開花するローリング・トゥエンティーズの1920年代に入り、広告戦略を変更する。おしゃべりに電話ビジネスの将来性を変更する。これは現在の携帯電話をめぐる状況にまでつながっている。

 電話は、母親と妻が聴覚障害者であり、聾学校の教師でもあったアレキサンダー・グラハム・ベルや聴覚が弱かったトーマス・エジソンによって、聴覚を補う道具として開発されている。電話はバリアフリーとして誕生したというわけだ。現在の携帯電話はメールやバイブレーション機能、写真撮影が装備され、障害者や高齢者を健常者とつないでいる。また、GPS装備の携帯電話は、1999年、線上からモールス信号を駆逐し、インマルサット端末の衛星電話を通じて、ジャーナリストたちは、2002年以降、アフガニスタンやイラクから記事や写真、動画を世界中のメディア各社に送信している。その上、携帯端末はユビキタス・コミュニケーターのプロト・タイプとして考えられている。これからは、さらにその方向に進んでいくだろう。電話はポストモダニズム的理想を追求している。

 ポストモダンにおいて人々が直面するのは、東浩紀が言っている「郵便的不安」、すなわちコミュニケーションの断絶と誤配ではない。電話社会で、間違い電話は不安にならない。人々を悩ませるのは「電話的不安」、一方的なコミュニケーションである。それは無言や卑猥な内容を含む嫌がらせの電話、他人のコンピュータへの不正アクセス、ジャンク・メールやウィルス、ワーム、スパム、スパイウェア、そして盗聴である。ウォーターゲートでの盗聴の発覚はリチャード・ニクソン大統領を辞任に追いこんだが、今では、エシュロンによって世界中の電波通信が盗聴されている。その盗聴もさらに盗聴されている可能性さえ否定できない。フランシス・フォード・コッポラ監督は、1973年に、『カンバセーション…盗聴…(The Conversation)』で、ジーン・ハックマン演じるハリー・コール(Harry Caul)という盗聴屋が自分自身も誰かに盗聴されているのではないかと不安に陥る姿をすでに描いている。”Bit Brother is Watching You!”

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