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PAIN

歳を重ねるごとに、「現在」よりも「未来」に一喜一憂する機会が増えた。

これを乗り切れば休みだ!なんて言葉をよく聞く限り、この傾向は自分だけではないのだろう。なんなら、「現在」から目を背けるために行動しているような気すらしてくる。

これは、痛みによく似ている気がする。

傷を受けた痛み____つまり、「現在」の苦しみは時間の経過と共に治癒されてゆく。当然、負った傷が深ければ深いほど致命傷になる。後遺症が残ることもあるだろう。
それでも適切な処置や時間さえあれば傷を受けた傷を受けた当初よりはずっと回復するはずだ。

では、「未来」はどうか。

今後受けるかもしれない痛みは、リスクを減らすことは出来ても治療することはできない。解決しようにも「現在」の僕らが「未来」の僕らに追いつくことは決してない。
ただ漠然とした焦燥感に首を絞められるのだ。

***

僕らはいつだって死ぬ癖にさも死なないような顔をして生きている。寿命や病気、事故や自死など原因は様々だが辿る結末は同じだ。そしてそれは生命活動に限ったことではなく、コミュニティにおいてもそうだろう。(学生生活における卒業、キャリアチェンジのための転職、寿退職など…)

そういった意味で1つの死を迎える彼らの行く末は必ずしも見届ける事はできない。いや、むしろ最後まで見届けられることの方が稀だろう。

「現在」は「過去」であり「未来」である。
今この瞬間を生きることが「過去」歩んでいた事、そして「未来」を歩んでいる事の証明にもなるなら過去を内在している僕が存在している事もまた死に行く僕らの生きた証明になり得るだろう。

***

過ごした日々が泡沫ならばなぜ痛みを伴うのか。
沈んだ空に疼く傷を忘れるように宵闇が今日も僕を抱く。

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