日記 2022年1月 30歳になっても「わたしたちは全然大人なんかじゃない」から、学び続ける。
1月某日(というか1日)
昼過ぎに目覚めて、口の中がお酒の味がして気持ち悪かった。実家の自分が使っていた部屋のベッドで二日酔いで目覚める。
過去の僕が知ったら絶望すること間違いないシチュエーションだ。
母親から置手紙があって、「あけましておめでとう」「仕事に行ってくる」「買い物をしておいてくれ」という内容で、凹む。
リビングでは父親がソファーに寝転んでテレビを見ていた。幼少期から見慣れたワンシーンだった。
母親に買い物を頼まれている旨を伝えて、近所の神社に初詣へ行ってくると伝えた。
「ワシも行こうかの」
と言うので、ちょっと意外な気持ちになる。
父と息子の二人で初詣へ出かけた。
ふと、年末から読み始めていた村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』を思い出す。こちらは、父と共に猫を棄てにいく話だけれど。
父との散歩で印象深いものはとくにないが、近所に団地があって、そこを夜に家族で散歩したことは覚えている。山を切り崩し作られた団地のてっぺんには公園(テニスコートもある)があって、そこを折り返し地点にしていた。
近所の神社に向かう途中で、幼少期によく遊んでいた年上の男の子を見かけた。彼は実家の農業を継いでいて、神社の道すがらにある畑の土いじりをしていた。
父親が声をかけ、僕は頭を下げるだけだった。
神社の前に到着し、長い石段の階段を二人で登った。
父親が途中で「もう、しんどい」と言った。石段一つ一つがデコボコしているので、疲れるのは分かるが「ガンバ☆」以外に言うことはなかった。
階段を最後まで登ると、一組の家族がいて、子供(女の子と男の子)たちが雪合戦をしていた。
昨夜、雪が降ったらしいけれど、神社の道すがらでは積もっているところはなかった。神社の周囲は高い木で覆われているため、溶けなかったらしい。
お賽銭を入れ、お参りをしようとして父親が「財布、持ってきてない」と言うので、5円玉をあげ、僕は100円玉で拝礼した。
帰ってから、父親と買い物へ出た。
母親が仕事から帰ってくる頃には、僕と父親はまたも酒を飲んでいて、母親には呆れられた。
夜、弟とその親友のハマが新年のあいさつにきた。
ハマはそこで「結婚しまして」と両親と僕に報告をしてくれた。その後、三人で母親のおせちを食べて、カラオケに行った。
1月某日
シラスという放送プラットフォームで「年末年始はシラスざんまい!」というキャンペーンがあった。
シラスがどういう理念から作られたか、という詳しい内容は以下の記事を参考にしていただきたい。
記事から簡単に抜粋すると「既存の動画プラットフォームに比べて、少ない視聴者数でも高い収益を上げられるモデルになっているのが特徴」なのが、「シラス」。
放送される内容は番組によるが、作家、クリエイター、アーティストといった創作に関する内容のものが多く、公式サイトには「シラスは「顔の見えるクラウドファンディングサイト」でもあるのです」とも記載されている。
そんなシラスで放送されたものは基本的に半年で公開を終了するが、「選りすぐりの15本を期間限定で再公開する」のが「年末年始はシラスざんまい!」だった。
僕は2021年の終わりにシラスに登録したので、見逃していた放送もあり、これを良い機会と年始からずっと見ていた。
見たのは「全 世 界 最 速 シン・エヴァ・レビュー生放送! さようなら、ぼくたちのエヴァンゲリオン。|さやわか×大井昌和×東浩紀(2021/03/08)」と「『風と共に去りぬ』とアメリカ|鴻巣友季子×東浩紀×上田洋子(2021/03/12)」と「哲学にとって愚かさとはなにか――原子力と中動態をめぐって【『ゲンロン11』刊行記念】|國分功一郎×東浩紀(2020/10/27)」だった。
結果、新年一発目に見た映画は「シン・エヴァンゲリオン劇場版」になった。
さやわか、大井昌和、東浩紀の話を聞いた後に見たシン・エヴァは全然違う印象になった。
内容に軽く触れると、序盤の第三村がどれだけ大事かということが分かって面白かった。確かに、庵野秀明が絶対に書こうとしなかった世界が第三村なんだよな、となる。
また、鴻巣友季子が翻訳した『風と共に去りぬ』を読まねばとなったし、國分功一郎との対談においては途中で投げ出してしまっていた「暇と退屈の倫理学」を改めて読もうと思った。
2022年は滑り出しから知的で読まなければならないもので埋め尽くされている。嬉しい悲鳴と言う他ない。
1月某日
文學界の2022年1月号の対談に國分功一郎と若林正恭があって、タイトルが「目的もなく遊び続けろ」だった。
以前も文學界で対談していて、それも僕は読んでいた。
お笑い芸人と哲学者の対談は一見、噛み合わないように思えて、互いの問題意識は一致していて二人の対談をもっと読みたくなる。
とくに好きだったのは、以下の部分だった。
若林 すごいばかみたいな質問なんですけど、例えば、自己肯定感50が平均だとして20の人間がいたとしたら、哲学を学んで70ぐらいにできると思いますか。
國分 ただ哲学を学ぶだけだと、それはありえないだろうと思います。自己肯定感を上げるには、自分との対話、自分のことを知ることが大事だと思います。僕が今とても感心を持っている当事者研究という営みも、自分で自分のことを研究するんです。そこで大切なのは、他者を経由することなんですね。必ず発表の場があり、みんなに聞いてもらう。
これを読んで思い浮かんだのは、「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」のホームズが薬物依存症で、カウンセリングとして当事者の集まる場に行き、自分の経験を語るシーンだった。
普通に生きていると複数の人間の前で個人的な経験を発表することは殆どない。それはつまり、「他者を経由すること」がない生活と言える。
僕は文章であれば、自分のことを書くことはできる。けれど、重要のは「みんなに聞いてもらう」だとすれば、僕は自らの肉声で複数の人たちを前にして自分のことを喋ろうとすると、端から形を崩していく未来しか見えない。
書くことと喋ること。
この回路は繋がっているようで違う。
僕はそろそろ喋ることも考えていくべきなのだろう。
1月某日
映画、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を見にいく。マーベルという長いシリーズものの最新作で、スパイダーマンで言うと三本目に当たる。
普段、マーベル映画は理髪店の友人と月曜日の仕事終わりに行くことが多い。理髪店は基本的に月曜日が休みで、友人と僕らが住んでいる近所のイオンシネマは月曜日が「ハッピーマンデー」として、1100円で映画が観れる。
1月10日は祝日で、昼から映画が観れると思い友人を誘ったら、用事があると言われてしまい一人でイオンへ出向いた。
このイオンの帽子屋は以前、僕が働いていて今でも店長とは顔見知りなので、いるかな?と思って寄ってみたが、いなかった。
映画を見たら日が暮れていた。
良い映画だった。
倉木さとしにLINEすると、見ていないと言うことだったので、オススメしておいた。
シラスの「さやわかのカルチャーお白洲」という番組で、さやわかが『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』について語っている回があったので、月額チャンネル購読して聴いた。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」と「ダークナイト・トリロジー」のテーマを更新をした作品として『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は優れているという話をしていて、なるほどと思う。
同時に、「ジョーカー」は何のテーマの更新もなされていない為にダメなんだという話も、分かると頷いてしまった。
「ジョーカー」は「ダークナイト・トリロジー」の深みを損なう内容になっていたから、そういう点でも『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の悪役の描き方は素晴しかった。
1月某日
トビー・マグワイア主演の「スパイダーマン(2002年)」「スパイダーマン2(2004)」「スパイダーマン3(2007)」を立て続けに観る。
時代もあるのだろうけれど、徹頭徹尾「家族と都市」の物語として描かれているな、という印象を持った。
都市で幸せに生きる為には家族が必要なのだ、という強迫観念でもあるのか?と思わなければ、あそこまでヒロインのジェーン・ワトソンに執着する理由が見当たらない。
個人的に「スパイダーマン3(2007)」は詰め込んだなぁ、という印象だが、一番好きだった。
とくに、トビー・マグワイアことピーター・パーカーが悩みに直面して「どうしたらいいのか」と育ての親であるメイおばさんに相談するシーンで、返しが
「まず、一番難しいことをしなさい。」
だったことに痺れる。
どうしたら良いか分からない時は「一番難しいことを」する。そのルートの方がすべきことは多くて、学びが多いからかなと勝手に想像して納得した。
1月某日
最近、気づいたこと。
「ミステリと言う勿れ」の一話を見る。
菅田将暉主演のドラマで、すでに撮影は終わっていて、一話の撮影は4ヶ月かかった、という話だった。
4ヶ月!
と思うが、それくらいかかるよね、と言いたくなるクオリティで素晴しいドラマだった。ミステリーとタイトルにあるように、立て続けに謎が解き明かされて行き、二度(だったと思う)どんでん返しもあって面白かった。
菅田将暉が演じた久能整のキャラが良すぎて、正直ずっと友達になりたいと思いながら見ていた。
最近、気づいたこと。
「妻、小学生になる。」の一話を見る。
堤真一主演のドラマで、原作の漫画をツイッターで一話だけ読んでいた。良い話だなぁと思っていたけれど、ドラマにすると更に良い話だった。
話はタイトル通りで、亡くなってしまった妻が生まれ変わって小学生になって元夫のもとに尋ねてくる、というもの。
漫画では妻に先立たれた夫と娘はすぐに小学生の妻を受け入れるのだが、ドラマでは拒絶から入ってもいて、これも良かった。
最近、気づいたこと。
京極夏彦の「今昔百鬼拾遺 天狗」を読む。
正直、京極夏彦に手を出し始めると時間は無限に必要になってくる可能性があるのだけれど、「虚談」が面白かったので他の作品もとなっている。
「今昔百鬼拾遺 天狗」は調べるとスピンオフ作品だが、独立した一編として読むことができる。
内容と言うよりも、僕はどこか京極夏彦の文体に惹かれている部分がある。こういう無駄をそぎ落とした文体を書いてみたいと言う気持ちが僕にはある。
吉行淳之介も作品によっては徹底的にそぎ落とした文体を採用しているのを知っているからかも知れない。
1月某日
古本屋で水城せとなの「窮鼠はチーズの夢を見る」とその続編の「俎上の鯉は二度跳ねる」、志村貴子の「おとなになっても」を買う。
他にも買ったのだけれど、この二つが対象的だったので、紹介したい。
「窮鼠はチーズの夢を見る」は映画で見ていて、コミックの後ろのあらすじには「限りなく切ないアダルト・ラブストーリー」とある。
掲載された雑誌が女性向けコミック誌『Judy』の増刊号『NIGHTY Judy』だった為か、BL漫画というカテゴライズされておらず、作者コメントも「(編集長から)ゲイとかSMとか」という一言と担当から「激しくエロく!」という熱い指導のもと書かれたとあるだけだった。
とりあえず、男二人が「激しくエロく!」恋愛していく話で、関係性も二転三転しまくっていくので目が離せなかった。
映画で展開は分かっているつもりだったが、漫画はまた別の結末になっていたので意外だった。
何にしても、タイトルの付け方が本当に好き。
「おとなになっても」は今、5巻まで出ているけれど、今回は1巻しか読んでいない。
元々古本屋へ行った理由は同じ作者の志村貴子の「こいいじ」の続き(全10巻の6巻までしか持っていない)が読みたかったからだった。
その古本屋には「こいいじ」を置いていなかったので、「おとなになっても」を手に取った。
帯には「好きになったのは、女の人でした。」「これは、わたしたちのふつうの恋の話」とあった。
「窮鼠はチーズの夢を見る」とは真逆の「少しビターな大人百合!」な物語なのだけれど、裏のあらすじには「30代の半ばになっても、わたしたちは全然大人なんかじゃない。」とある。
勝手に共通点を結びつけるが「窮鼠はチーズの夢を見る」の二人も31歳と29歳だった。
自分の性的な部分を冷静に目を向けられるようになるのは、ある程度の経験や時間の経過が必要なのかも知れないな、と思った。
そんな時間経過があっても「おとなになっても」はタイトル通り、勢いでキスもするし、相手を好きになっちゃうし、会いたくもなる。
恋愛的な欲求はシンプルで、そこに人間的な成熟などない。
志村貴子はそういう幼稚さというか、未熟さを真っ直ぐ描いている作家に思えて、無視できない作家の一人になっている。