カレーを作るのはいつも土曜日の夕方。
カレーを作るのはいつも土曜日の夕方でした。
平日の僕の昼食はいつもおにぎり二つで、仕事終わりに三十分ほど歩いてから帰るのもあって、部屋にたどり着く頃にはお腹がぺこぺこで、すぐにでも何かを食べたい気持ちでいっぱいになるんです。なので、料理するにしても手早く済ませます。
そんな訳で、カレーを作るのは休日になります。
カレーを作る日の土曜日の僕はちょっとだけ元気です。昼過ぎに起きて、映画「寝ても覚めても」を観て、お風呂に入って青山七恵の「かけら」を読んで、ハイボールを作ってから、カレー作りを始めました。
食材を切りつつ、カクヨムのエッセイの内容を考えていました。今回の更新が二十代最後のエッセイなので、何か記念的な内容にしたいなと以前から、小説を読んでくれている友人には相談をしていました。
けれど、今になってもこれだ、というものは浮かんでいません。
試みの一つとして「もしも、もう一度二十代を繰り返すとしても好きになる十のキーワード。」を書いてみたんですが、僕の人生とか生活に紐付いたエッセイにはならなかったな、というのが正直な実感でした。
かと言って、僕の人生や生活を振り返っても、エッセイになりそうなエピソードはなく、だからこそ「三十歳になる為」という言葉に頼って、どこかに出かけたり、何かに挑戦すべきだと思っていたんですが、結局なにもせず、ここまで来てしまった訳です。
僕は一つのことをコツコツ続けることは(ある程度)できるんですが、計画的に頑張ろう、という受験型の努力を苦手としています。
よく言われることですが、新人賞を取ることは受験勉強に似ています。実際、新人賞の受賞作を並べてみると、一定のパターンというか、偏りを認めることができます。
また、新人賞側から、こういう作品を募集します、と言う条件が提示されているものもあります。
僕がnoteとは別に書いているカクヨムにも賞があって、募集要項はジャンルによって分けられています。「異世界ファンタジー部門」とか、「恋愛部門」とか、「ラブコメ部門」とか。
恋愛とラブコメって違うんだ、とかぬるいことしか思わない僕は本当に、この手の受験型の新人登竜門に合わないな、と心から思っています。
学生の頃に知り合った友人に、とある新人賞の最終候補に残った方がいて、彼いわく「新人賞は、それを取るための作品を書かないといけない」とのことで、その言葉は今も僕の中に呪いのように残っています。
小説を書くからには、面白いものではなくて、新人賞を取れるようなものを書きたい、なんて僕が思ってキーボードを叩き始めると十中八九手が止まり、もう一人の僕が顔を出して「そういう風に書くのはやめとけ」と言ってくるんです。
もう一人の僕が、そう言うのには理由があります。
学校卒業して一年か二年くらい経った頃、学校の先生が作品を見てくれる勉強会が開かれたことがありました。
提出するのは、自分が取りたい賞やジャンルを分析したものと、それに合わせた幾つかのプロットでした。
僕がそこで提出したものは先生いわく「文芸誌の目次に載っているようなあらすじの羅列」とのこと。
今思えば、本当にその通りです。
そして、「さとくらくんは、普段なにを考えているの?」と尋ねられて、弟の話をしたところ「それを小説にしなさい」と言われたのでした。
僕は自分の体験や考えが核にある小説でなければ、おそらく「文芸誌の目次に載っているような」作品(つまり二番煎じ)しか生みだせないのだと思います。
とはいえ、先生に言われて書いた小説も、出来はそれほど良くありませんでした。
それは単純に技術的な問題でした。
長々と書いてきましたが、詰まるところ僕自身の力不足、勉強不足であるということに尽きます。
僕は自分が辿ってきた二十代を振り返ってみると、常にこの小説の技術的な不足を感じ続けてきました。
などと言う僕の実感と繋がるのか分からないのですが、ここで作家の浅井ラボがツイッターで以前書いていたものを引用させてください。
20代は「目に見えない負債」を減らす時期だと意識したほうが良い。人との繋がりのなさや人間不信とかこっそり進行する病気とか異常性癖とか無知とか。そういう負債がリボ払いで、30代以降で大爆発して目に見える破滅(重病や破産や事件)に変わってく。
強力な地雷ほど目に見えないっていうのはホント
僕は今までの生活の中で「目に見えない負債」を減らすことはできたのだろうか? と考えます。
よく分からない、というのが今の僕の正直な感想です。
ただ、一つ引っかかっていることがあります。
僕はさきほど、学校の先生との話で自分の体験や考えが核にある小説でなければ、二番煎じのようなものしか生みだせない、と書きました。
それでいくと僕は自分が体験したこと、考えたことをちゃんと小説にしようと思っているのだろうか?
そう疑ってしまう部分があります。
何でもかんでも、体験や考えを小説にすべだ、と僕は別に思っている訳ではありません。
ただ、例えば彼女ができると、僕はその子のことだけを考えて日々を過ごしているんです。彼女との関係性が上手くいかない時とか、何かしらのトラブルがあると、寝ずにそれについて考えたり毎回しているんですよね。
自分を恋愛体質と思ったことはないんですけど、恋愛の渦中にいると、考えること(?)が、湯水のように湧き上がってくるんです。
そして、それらはお別れをした後、霧のように霧散していく訳です。
霧散した霧を掴んで小説にしようと僕はしていないんですよね。彼女のことを書くって、そりゃあ相手のいることですから、体験そのものを書ける訳ではありません。
けど、結構いろいろ考えていたよね?
それが、小説やエッセイに一切出てこないって、不自然では? 職場であったことや、自己啓発系の集まりに行ったことは嬉々として書く癖に。
と、ツッコミを入れてしまう自分がいるんですよね。
もっと言えば、彼女のことで眠れない夜を過ごすなら、小説でも同じくらい眠れない夜を過ごせよ、なめてんのか、てめぇってなるんです。
象徴的だな、と思ったのは彼女と別れると僕は友人の倉木さとしさんにLINEをするんです。その内容が「小説を書きます」だったんです。
これって「彼女と別れて時間ができたので」小説を書きますなのか、それとも「彼女とお付き合いしていた間に考えていたことで」小説を書きますってことなのか。
え? どっち?
いやまぁ、僕の頭の中のことなんですけど。
改めて考えると、どっちの意味もあるような気がするんです。で、律儀に色々考えて、おかざき真里の「バスルーム寓話」を下敷きにしたようなプロットを当時の僕は作るんですよね。
けれど、あまりにも安易だし、たいした話に思えなくてボツにする訳です。ボツにするようなものしか思い浮かばない自分に自己嫌悪です。
そこで、ふと思い至ったんですが、「小説を書きます」って言ってた僕って、逆に言えば彼女と付き合っている間、小説を書く気がなかったんじゃないか、と思うんです。
今までお付き合いした方々って、僕が小説を書いているって言ったところで、とくに興味を示すことはなかったんです。
なので、このエッセイで書いているような話題が出ることもないし、精々が「君に届け」面白いよね、くらいでした。
十代の終わりから書き始めて、ずっと小説とかエッセイについて考え続けてきたけれど、彼女と一緒にいる時だけは小説について考えなくて良い。
この限定的な場所を僕は逃げ場所にしていたのではないか。
だとすれば、僕は彼女のことだけを考えて日々を過ごしていた訳じゃなくて、小説のことを考えなくて良い時間=彼女との時間を求めていたんじゃないか。
そして、これを僕は否定できないんです。
その為、僕は二重の意味で中途半端な人間になります。
①小説のことを考えたり、書いたりすることが実はそれほど好きじゃない。
②好きじゃない小説を考えないようにする為に彼女と会っていた。根も葉もない言い方をすれば、彼女を小説から目を背ける為の逃げ場所にしていた。
浅井ラボの「目に見えない負債」はここにあるな、と思うんです。僕の中にある、この中途半端さを自覚しておかなければ、どっちつかずでズルズルと年を重ねて、結局は何も成し遂げられず、強力な地雷の前まで進んでしまう気がするんです。
少なくとも、小説の逃げ場所として彼女を使っていたかも知れない、って言うのは本当にダメ。
最初から小説を考えなくて良い隠れ蓑になるな、と思って付き合った訳ではないはずですが、結果的にそうなっている以上、弁明の余地なし、みたいになっていますね。
もう子供じゃないんだから、嫌なことから逃げ出したりするのは止めよう。
って何というか、安易な結論だなぁ。
最後に文學界の3月号の國分功一郎と若林正恭の対談の発言を引用したいと思います。國分功一郎の発言です。
ヘーゲルという哲学者が弁証法ということを言っていて、これは物事には必ず矛盾があって、その矛盾を乗り越えて物事は進んでいくという話なんですけど、弁証法のポイントは、二つの勢力が矛盾するんじゃなくて、一つの物事の中に矛盾があるってことなんですね。
一つの物事の中に矛盾があって、それを乗り越えて進んで行くんだとすれば、小説を書きたいと書きたくない、という矛盾はあって当然なのかも知れません。
と最後に自分を甘やかして、二十代最後のエッセイを締めくくりたいと思います。
三十歳からの僕はもう少しまともな人間になるよう努力いたしますので、今後ともよろしくお願い致します。
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