【読書感想文】敵の敵は味方(J.R.R.トールキン『ホビットの冒険』)
財宝を守っていたドラゴンが人間に倒され、その財宝の所有権をめぐってドワーフと人間とエルフとが一触即発の危機に陥る場面である。
本書で一番印象に残った一文だ。
最大の脅威と思われていた、まるで無差別爆撃の権化のようなドラゴンが消えたあとに、さらに大きな困難が持ち上がるというのが、この物語の真骨頂だ。
ドラクエでいえば、竜王を倒し、ラダトームに帰ってきたら、姫と国王の座をめぐって殺し合いが始まるようなものだ。児童文学でここまでやるとは。
もちろん、それぞれに筋の通った言い分がある。
先祖から受け継いだ財宝を独占しようとするドワーフと、ドワーフが怒らせたドラゴンに街を焼かれ、そのドラゴンを退治した人間と、街の再建に力を貸し、うまい汁を吸おうとやってきたエルフたち。
しかし彼らは皆、我々人間の持つ底しれない欲望と、身勝手な正義を体現したものだ。
この物語ではドワーフとエルフは人間とは別の種族であり、前者は無骨で採掘と工芸に秀で、後者は繊細で美しく歌と踊りを愛し、どちらも金銀財宝に目がないが、これらの特徴は我々人間の持つ性質の一部に過ぎない。
いわば様々な架空の種族の姿を借りて、人間同士の争いを描いているのだ。
この物語最大の危機を、我々人間の良心を体現する主人公ビルボはどのように解決するのか?この物語を読む子どもたちが納得する結末とは?
と思ったら、なんとそこに、機会をうかがっていたゴブリンの大軍が現れるのである。
敵の敵は味方、というわけだ。
共通の敵に対してドワーフと人間とエルフが共闘し、多くの犠牲を払いながらも平和を取り戻す。
これまで人間の歴史で何度も繰り返されてきたように、外に敵を作ることで彼らは仲違いをやめ、結束を強める。
しかしもちろん、ゴブリンも人間のカリカチュアにすぎない。
これはドワーフたちが森エルフの領域を侵し、エルフの王の宮殿に捕らえられた場面からの引用だ。
言うまでもないことだが、捕虜だけでなく同胞に対しても残酷な振る舞いを現実に繰り返してきたのは、ゴブリンなどの魔物ではなく、我々人間だ。
繰り返すが、ファンタジーでは様々な種族が様々な性格を持ち合わせているが、それは全て人間のさまざまな特徴を抽出し、誇張し、擬人化したものだ。
問題は作者がどこまでそのことを自覚しているのかだ。児童書として成立させるための必要悪なのか。作者の欺瞞なのか、やむを得ないドラマツルギーなのか。
物語を成立させるためだったのかもしれないが、こうではない別の解決策を私は見てみたかった。
あるいはこのようにせざるを得ないほど、これ以外の解決方法がないと思えるほど、Dragon sickness (財宝に心を奪われること)は癒しようのない病で、人間は救いがたい生き物だと、トールキンは信じていたのだろうか。