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ありがとう貯金

キッチンの片隅に置かれた半透明の緑色をした貯金箱の重さ、2.6kg。

私がこの貯金箱にお金を入れる時、貯金箱にかける言葉が、一つある。

「ありがとう」

私はその言葉を言いながら、貯金箱にお金を入れることにしている。


貯金箱を買ったのは、5年ほど前のことだ。
当時の私は、常にイライラしていた。

何が私をイライラさせていたのか。

仕事?
家事?
親父?
夫?
子育て?

多分、上司。

当時、私の隣の席に座っていた上司は、とことん肌に合わない人だった。
どうしようもなく生理的に合わなかった。
仕事の仕方、食事中の咀嚼音、ほどよく漂うオヤジ臭、偉そうな態度、そのくせ上には媚びる中途半端さ。
溺愛する息子を取られてしまった姑のような気持ちで、上司の気に食わないところを、探しまくっていた日々だった。
窓のさんのホコリまで指の先で拭うような探し方。

今では笑い話にできるけど、当時の私の右半身は常に硬直していた。
あまりに右側を向きたくなくて、回転椅子が、自然にギギギと左側に回転していたに違いない。

やることなすこと私の神経を逆撫でするその人と一緒に仕事をするのは、辛かった。合わないとはいえ、「仕事だし」と耐える日々。
嫌なことでも「イエッサー!」と従順に上司の指示に従う種の人間でない私は、反抗的な態度をとりつつ、お世辞も使いつつ、とりあえずお給料をいただくため、自分をなだめすかせながら生活をしていた。

うまくいかない時、人は、何かにすがりたい。

何かこの事態を好転させるものはないものだろうか。
と、そんな時に目にしたのは、嬉しかったことなどを書いたメモ用紙にお金を包み、貯金していくというものだった。
感謝の気持ちをお金と一緒に貯めていく、とかそんなようなものだった気がする。

貯金をしたところで、上司との関係が改善するわけでも、ヤツが私の目の前からいなくなるわけでもない。
ゴミを拾うと徳がつめますとか、右の頬をぶたれたら左の頬を出します、とか、そういう自分の気持ちの持っていき方を変えましょうというだけのもの。

効果的かどうかと言えば、効果はない。
意味があるかどうか問うならば、意味はないと思う。

でも、私はそれにすがってみることにした。
まあ、ささやかでも気持ちが好転して、ついでにお金が貯まるならいいかぐらいの気持ちだった。

当時の私は、紙に書けるようないいことなんて特別ない気がしていたし、あまりに自己啓発的なそれを忠実に実践する気にはならなかった。
でも、嫌なことがあっても、ありがとうと言いながら貯金をするというのはポジティブだなと思った。

「今日はあの人の愚痴に耐え抜きました。ありがとう」
「美味しいお菓子が食べれました。ありがとう」
「帰りに雨が止んで、濡れずに帰れました。ありがとう」

とにかく、何かをありがとうに変えて、貯金をすることにした。
100円均一で、500円玉を満タンにすれば30万円貯まるという貯金箱を買って。
来る日も来る日も、財布から100円玉か500円玉を探して「ありがとう」と言いながら貯金した。

貯金箱にお金を入れるルール。
①100円以上
②ありがとうと言う

この二つを守って、お金を入れ続けた。
貯金箱を持つたびにずっしりと「ありがとう」が貯まっていく。
これは私が色んなことを耐えて前を向こうと努力した結果だ。

お金が貯まるたびに、貯金箱は頑張っている私を励ましてくれた。

貯金箱は、目に見えるところに置くことにした。
いつでも見ることができるように。
感謝の気持ちを忘れずにいられるように。

私が家にいる時に、よくいる場所。
それはキッチンだ。

半透明の薄い緑色の貯金箱は、どのくらいお金が貯まっているかがよく見えた。
必ず朝晩キッチンに立つ私は、この「ありがとう貯金」を見るたびに、自分が好きになった。

息子たちは私が「ありがとう」と言いながら貯金をしているのを知っていた。

キッチンに寄ってきては
「お母さん、お金貯めてどうすると?」
と聞いたりもした。
「貯金箱がいっぱいになったらディズニーランドに行こう!」
と私は答えた。

「じゃあ、ぼくのお金も入れるね!」
と息子たちは、お手伝いをしてもらったお金を入れてくれることもあった。

いつの間にか「ありがとう貯金」は日々をやり過ごすためのものでなく、楽しい未来を想像させてくれる貯金になった。
そして、次第に私のストレスは軽減されて、貯金箱の上にはお菓子の袋だとか、色んなものが置かれていった。
存在が薄くなりつつある貯金箱。
私はいつのまにか「ありがとう」と言いながら、貯金をすることが減っていた。

それでもまだ、私は「ありがとう」と貯金をすることもある。
気が付けば、もう貯金箱にはいっぱいの「ありがとう」が貯まっている。

「お母さん、もういっぱいやけん、ディズニーランド行けるっちゃない?」
息子が貯金箱を覗き込んで、キラキラとした目を私に向ける。

「そうやね。行けるかもね!」
私もウキウキしながら、その目に答える。


さて、いくら貯まっているんだろうか。
がんばってきた私の努力が解放される日は近い。





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