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『偽る人』(揺れる) (第1話)

母の亡霊にいつまでも

 小さな簡易机の上で、恭子はパソコンを開いたまま茶色い手帳をめくっていた。
 一年ごとに簡単なスケジュールと毎日のメモが書き込めるその手帳は、去年亡くなった母親の房子が残したものだ。房子は九〇歳を過ぎても老眼鏡をかけて本を読み、判読し難い小さくくにゃくにゃした文字で手帳に毎日なにがしかのメモを書き込んでいた。

亡くなってから、房子が残したおびただしい荷物や書類を整理していったが、とても整理しきれない。何冊もある手帳や金銭出納帳、銀行や郵便局の通帳、日記などは、落ち着いてから読もうと思って、よけていたものだ。
 手帳のメモには、その日購入した物の代金が細々書かれていたり、その日行った所、会った人が書かれていたりする。その合間に、短い日記のようなものが書かれていたりするのだ。
 ただでさえ小さなスペースに書かれた小さな文字は、ずっと見つめていても、なかなか読めない。象形文字のような、虫のような、それらをずっと判読しようと見つめていると、苛立ちに似た気持ちが起こってくる。
 私は一体何をやり続けているのだろう。いつまで房子に関わっているのだろう。
 誰のためにやっているのだろう。この作業が、本当に、いつか報われることがあるのだろうか。そもそも「報われる」というのは、どういうことだろう。私はどうしたら、報われるのだろう。誰に分かってほしいのだろう。
今となっては、それもあやふやな気持ちになってきている。

 手帳に書かれている房子の震えて波打つような字を目をこらして見ていくと、頻繁に自分の名前が出てくる。
 「恭子と夕飯を〇〇で食べた」その下に、ある時は自分が支払った、〇〇円、と。ある時は、恭子が支払った、と。
 生前、房子が買い物してきた時(自分の物であったり、他所に上げる物であったり、自宅用に買ってくれた物であったり)、いくらだったの?と訊いても、房子がはっきり答えることはなかった。たいてい、忘れた、とか、分からない、と言った。そのくせ、こうして細々と、買った代金などをメモしていたのだ。
 房子は実の親でありながら、恭子に本心をさらけ出すことはなかった。恭子に話したいのは、息子の嫁であるやすよの愚痴と悪口だけであり、恭子がそれを制すると、もう一切話をしなくなった。恭子はただの愚痴のはけ口でしかなかったのだ。

 房子は人前ではすっかり別人格になった。オーバーにやさしい演技をしたり、他人をお世辞でほめちぎるので、房子の実像を誰も知らない。誰もが、房子をやさしく上品な人だと思い込んでいた。
 思えば、亡くなるまでそうした人物であるように、完璧に振舞い続けた房子に、ある意味敬意さえ表したくなる。人気を得るために、そこまで普段の自分を隠し、自我を抑えることは、恭子にはとてもできない。

 親しく話し合うこともなかった房子が、いったい何を考えていたのか知りたくて、恭子は手帳の小さな字をのぞき込み、判読しようと時間を使っている。
 亡くなってなお、恭子には、房子が自分を産んだ親だとは信じられない気持ちがある。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。


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