『偽る人』(揺れる) (第2話)
始まりは
それは十年以上前のある日。昼近くのことだった。
恭子は何日も前から家中の掃除をして、二階の一室のベッドを整えて、電話を待っていた。もうすぐ到着するだろうイタリア人の留学生からの電話だった。
留学生を受け入れるのは、その年二人目だった。
恭子の家は、日本にある語学学校のホームステイ先の一軒になっている。語学学校が始めようとしていた新しい企画にちょうど乗ることができたのだ。その学校にとって、恭子の家が初めてのホームステイ受け入れ先ということになる。
食費や光熱費その他の経費がかかるから、手元に残るのは多くはないけれど、ステイ料をもらうのはありがたかった。
見知らぬ外国人を受け入れるのは、どんな人が来るのか楽しみでもあるし、お金をもらう仕事であるわけだから緊張する。
留学生がいる間、掃除はトイレも含めて念入りにやるし、ベッドのシーツや布団カバー、枕カバーも頻繁に交換する。
その日も鏡も曇りのないように布で拭いたし、ゴミ箱の中も点検して、ティッシュも箱の中にちゃんと入っているか確かめた。
朝から動き回ったおかげで、恭子は昼頃にはもう、かなり疲れていた。でも、新しい外国人を迎える緊張は続いている。
どんな人が来るんだろう、と思った。
最初に来たのはアルゼンチン国籍の中年の女性だった。カナダの語学学校で英語を教えているといういう彼女は明るい人で、マンネリしている家の中に新しい空気が入り込んだような気がした。
駅まで車で迎えに行くことになっている夫の卓雄は、さっきから台所で、コップを片付けたり、トースターの配線を替えたり、どうでもいいようなことをやっていて、そわそわ落ち着かない。何かある時の卓雄はいつもこうだ。ずっと前、恭子がお産で病院に行こうとしている時には、急に玄関をほうきで掃き始めた。何をやったらいいのか分からなくなるのだろう。
お昼は何にしようか、と恭子が考えている時、電話が鳴った。留学生からだと思った。卓雄も壁の時計を確かめた。
ところが、電話は驚いたことに、母の房子からだった。
「今から行くから!」
房子は切り口上に、それだけ言った。憮然とした、低く、暗い声。それでいて、こちらに有無を言わさない強引さを持っている。
え? 今? 房子が? なんでこのタイミングで。
房子は恭子の家からバスと電車で一時間ほどの所に兄幸男の家族と住んでいる。幸男の嫁のやすよとは仲が悪く、ろくに口もきいていない。やすよと衝突しては恭子に不満を言いにくることがよくあった。
それにしても、こんな時に、勘弁してほしかった。今はとてもそんな余裕はない。数日前から動き回って、準備万端整えて、ただひたすら留学生を待っているのだ。
けれど、恭子は房子にそんなことを言えない。今までだって、房子に逆らうようなことを言ったことがなかった。普通の親子のように、遠慮のない関係ではない。気持ちとは裏腹に、はい、勿論大丈夫、待っていますよ、と反射的に温かい声で言ってしまう自分がうらめしかった。
困ったな、と受話器を置いてから恭子は思った。
きっとまたやすよと何かがあって、不満を言いに来るのだろう。今のこの家の状況を伝えたいけど、今は困る、なんて、とても言えない。
「おかあさんが今から来る、って」
ざわざわした気持ちで恭子が卓雄に伝えると、
彼はふーんと、普通に返事をした。明らかに、留学生のことでいっぱいいっぱいで、房子のことはちゃんと頭に入っていってないようだった。
やがて房子は、兄幸男の車でやってきた。
いつものように、玄関前に灰色の車が停まり、幸男と房子が降りてきた。
幸男はデパートの大きな紙袋3つを車内から運び出す。彼の眼鏡の奥の小さな目は、真面目な表情をとりつくろいながらも、苦笑いしているように見えた。四十代の頃から薄くなり始めた髪の毛はさらに無くなって、頭のてっぺんのかなり広い部分が地肌そのままで、てらてら光っていた。
房子は恭子と卓雄がいる六畳の和室の隅に、紙袋に囲まれるようにして、ちんまり座りこんだ。
言葉は発しなくても、房子の骨ばった肩や背中や体全体から、ピリピリ尖った電波を発しているのを感じた。
発しているのが言葉にならないくらい激しい怒りであることは、すぐに分かる。房子はこうして、周りを威嚇してきたのだ。
房子の紙袋の中の荷物を見て、あぁ、泊る気なのだ、と恭子は思った。いつものように、ただ怒って飛び出しただけじゃないのだ。
部屋はどうしよう。これから留学生が来るというのに。そんなに長い間ではないと思うけど・・・。いろいろ考えると、不安でいっぱいだった。
けれど、恭子の口からは、
「ゆっくりしていってね。」
と房子にかけるやさしい言葉が自動的に出てしまう。
房子は暗い顔をしたまま、体を硬くして、ほとんど口をきかなかった。
幸男は苦笑いしながら、房子とやすよの衝突について軽く口にした。まるで他所の家族のちょっとしたドラマであるかのようだった。
「どうする? しばらくここにいる?」
幸男は子供に訊くように、やさしく房子の顔を覗き込んだ。60歳を過ぎた幸男は、あちこちに脂肪がついて、年齢相応に崩れた体形になっている。週何回かジムに通っているとは聞いているが、ただの半分はげたくたびれたおじさんでしかなかった。
しかし、どう考えても、不自然だった。房子も房子だが、幸男も、恭子や卓雄を前にして、房子が泊まることの許可を得ようともしない。こちらの都合など訊くこともないのだ。
幸男に訊かれて、房子は黙ってこっくり首を縦に動かした。八十五歳の房子が、幸男の前で、子供のようでもあり、少女のようにも見えた。
「二、三日すれば落ち着くでしょう。じゃ、帰りますね。」
幸男は腰を上げ、つられて房子も立ち上がった。
幸男は恭子達に向かって、一言、
「じゃ、頼みますね」
と言った。
「頼みますね」の言葉に、お願いする謙虚さは微塵もない。当たり前のように言った。
こちらの都合を訊くこともなかった。自分の家での出来事を詳しく説明して、申し訳ないけど、と謝ることもなかった。親なんだから、預かるのが当然だろう、というような様子だった。
幸男にしてみれば、房子の今後の展開は読めていなかったのだろう。最初は、房子がいつもの喧嘩の後のように、その日のうちに帰ると思っていたのだろう。
けれど、それにしても、こちらの都合を訊くくらいはしても良いだろう。
いきなりの電話で、このタイミングで、房子の部屋を用意しろというのだろうか。
その日の房子は、いつもよりかたくなだった。これまで何回かそんなことがあったように、幸男の車に乗り込んで帰ることはなかった。よほどの怒りだったのだろう。房子は玄関の外まで出て、車に乗り込んだ幸男を、頼りない顔をして見送った。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。
幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。
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