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火入れのボタン

自分にとって当たり前に知っているそれが、人にとっては全く知らない未知のものであることがある。異世代間交流をするとそれがごちゃまぜになって、お互いに発見があるからおもしろい。

1年ほど参加している短歌の会の中で、「火入れのボタン」ということばを入れて短歌を作った人がいた。知らない単語は、事前に辞書で調べて予習して臨むので、その短歌で描かれているある程度の状況は自分なりに予測がつくことが多い。しかし、この短歌は、私にはさっぱりわからなかった。糸口をつかもうと、まずは「火入れ」で調べてみる。

1. ある目的でものに火を入れること
2. タバコなどの火種を入れておく小さな器

抽象的で、よくわからない。何に火を入れるのだろう。ボタン…ぼたん?牡丹?さっぱりわからん。こういうわからないものに限って、解釈や感想を当てられる。正直に、「火入れ、の単語を調べてみたけど、状況がよくわかりませんでした」と述べる。「私はよくわかるわあ〜」「わたしも〜…!」と盛り上がる平均60〜70代のおばさま方。むぐぐ、無知な己を思い知る…屈辱。そう思っていると、「私もわかりませんでした」と、30代のもう一人のメンバーの声。そこで、(歌会の中では)若者チームと、お姉様方チームで意見がパックリ分かれることが判明した。

「火入れのボタン」とは、火葬場でご遺体に火を入れるスイッチのことだそうだ。押すとボーッと火が出てもうその方とは会えなくなる「さよなら」の合図。「これを押したらもう取り返しがつかない」というとても複雑な思いの象徴。大切な人を亡くした経験のある人ならば、必ず知っている場面だ。「火入れのボタン」と聞いただけで、その場面が蘇り、皆自分の経験した思いが蘇る、共通言語。しかし、我々若者チームは、まだありがたいことにその場面に責任ある立場で立ち会ったことがない。ぼんやりと子どもの頃に見たことはあるかもしれないが、自分がボタンを押すほど近しい大切な人を失ったことがないから、そのボタンの重みがわからなかったのだ。

その場面に皆が共感する。歳を取るということは、酸いも甘いもそれだけ多くの経験を経るということだ。逆に、私たち若者チームが当たり前に知っていることばでも、おばさま方にはちんぷんかんぷんなこともある。こうして、違った世代の人と交流をして、自分が知らないことも臆せずさらけ出して、共通言語を少しずつ増やしていくことはとても奥深い、ありがたいことだと思う。

あまり想像はしたくないけれど、いつか自分が火入れのボタンを押す場面が来たら、こんなやりとりを懐かしく思い返すのだろうか。それは、悲しくはあるのだけど、なんだかとても心強いことばの記憶だと思った。

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