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美しい距離の微調整

美しい距離』という本を読み終えた。(ネタバレ含む)

先日私は、助産師としてお産介助につく際の「産婦さんと彼女を取り巻く家族の距離」について書いたが、最後まで読み終えたら、ああちょっと違ったかなと思った。

実母か夫か、どちらか一人を優先するとしたら、私個人的には夫を優先したい。お産は、家族の再構成の場面だと思うからだ。

そう信じて、今までお産介助についていた。でも、これこそ傲慢な考えだったなと今日になって思った。この本の中に、こんな一節があったからだ。

妻を独占しないようにしよう。
配偶者というのは、相手を独占できる者ではなくて、相手の社会を信じる者のことなのだ。妻が入院してから、そんな風に考えるようになってきた。妻の母にしても、妻と二人っきりになりたいときがあるに違いない。配偶者が遠慮すべきときも、きっとある。妻のことを思っている人は、その他にもたぶん、たくさんいる。

癌でターミナルケアになった妻に寄り添いながら、妻の、妻の母との距離、仕事相手との距離、夫という自分自身との距離…そういうものを客観的に見ている夫のことばだ。

夫だから、誰よりも妻を独占する権利があるとか、夫と、妻の母とのどちらが近しいとか、そんなこと妻自身にしかわからない。そもそも、妻という役割はあるものの、独立した一人の人間だ。今日はこの距離がバッチリ決まって美しくとも、明日はまた違う場合もあるかもしれない。関係性によって「当然こうすべきである」ことなんて実はなくて、その時、その状況その瞬間の美しい距離というものを、微調整していくことが大切なのではないか。これが、私の新しい見解だ。

今までの自分の考えも、大きくは間違っていないと思う。お産のときに、夫を押しのけて娘にべったりの実母は、「母だから当然娘の一番そばにいるべき」という母の傲慢さがあるように見えてしまうし、それは夫も然りである。他人で黒子の助産師である私から見ても「美しい距離」を取っておられた素晴らしい実母さんは、やはりその瞬間の自分と娘とお婿さんとの距離をきちんとはかって、微調整をしていたからなのだと思う。

山崎ナオコーラさんは、『母ではなくて親になる』にという自身の妊娠出産子育てを綴ったエッセイでも、一貫して自分が産んだ子どものことを「私のところにいる赤ん坊」とニュートラルな一人の人間として扱っていた。その彼女だからこその、依存しない独立した人間同士の関係性を見つめた文章で、とてもおもしろかった。

自分自身のメモとして、いつも本は全て読み終えてから感想に取りかかっていたが、こうして読み途中の感情を残しておくこともとても意味があるなあと思った。読んでいる途中にも自分の中で色々な気づきがあるのに、最後まで読み終えると、自分の感情も最後に芽生えたもので完結してしまい、その過程のモヤモヤたちはリライトされてしまう。過程は、固まっていなくて浅はかだったりもするけれど、それも自分の中から生まれ出たもの。これからは過程も記録してみよう。良本。