旧制中高等科山岳部:いざや登らん(戦前の主な登山活動)
学習院大学山岳部 昭和40年卒 檜山栄司
この時代、特に活躍が目立つのは華族の子弟でした。 例えば、板倉勝宣は備中松山藩主の家系、松方三郎は松方正義首相の子息、岡部長量は和泉岸和田藩主の子息、加藤泰安は伊予大洲藩主の家系、福岡孝行は桂内閣の文部卿福岡孝弟(土佐藩士)の家系、木戸孝澄は祖父が孝允(桂小五郎、長州藩士)でした。 このような出自の人々が、登山やスキーの分野で活動しました。
板倉の盟友である松方三郎は1921年1月、山崎深造と共に案内人を伴いスキーで燕岳を登頂しました。 これは厳冬期に北アルプスの一角が登られた最初の記録でした。
1922年3月には、慶応・学習院の混成隊が槍ヶ岳の積雪期初登頂に成功しています。 板倉らの2回の挑戦があっての成果であったとされています。
1922年3月には、岡部長量ら4名が強力4名と共に立山・剣岳に挑戦しましたが、立山温泉で猛吹雪に阻まれて断念しました。 帰路で慶応三田隊が立山・剣岳をスキー登山で積雪期初登頂を果たしました。
1923年1月17日、OB板倉勝宣が立山松尾峠で遭難死しました。 8月には岡部長量が剣岳、八峰上・下を通し初登攀に成功しています。
1925年、旅行部が山岳部に改称され、初代山岳部長に渡辺八郎教授が就任しました。 同年7月には日本山岳会が初の海外遠征を行い、岡部と波多野は慶応の4名とカナダ・アルバータ峰(3619m)に初登頂しました。 これは日本最初の海外遠征隊であり、当時の写真は岡部が担当したものでした。
しかし、この後OBの岡部長量、波多野正信らが相次いで病死し、部の活動は一時停滞しました。 ただし、関温泉のスキー合宿は続けられ、多くの学生がスキーの楽しさに触れました。
「旧制中高等科山岳部:関温泉スキー合宿」から
「旧制中高等科山岳部:学習院山岳会(後の山桜会)の設立と活動」へ
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