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上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑥

学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘

 あらためて、輔仁会雑誌を検証してみた。

輔仁会雑誌131号(昭和2年12月)
山岳部報告(国澤満次郎(※1))

 本年度夏季登山は7月中に4組、8月上旬に上高地・穂高への組を加えて5組を計画した。
 (中略)上高地は天気があまり恵まれなかった。 7月中旬以降8月上旬はずっと天気が悪かった。 本年は8月穂高で、先輩方と共に活動写真を撮ることができた。 追って山岳部例会を行って上映するつもりである。 上高地の小屋は渡辺先生はじめ、山岳部の先輩、ボート部の井口さんが来て大変ににぎわった。 上高地も新八景に入って、次第に人が多くなりにぎやかになってきた。 来年の人出が思いやられる。

輔仁会雑誌131号(昭和2年12月)

 この小屋はいわゆる五千尺の貸し小屋のようだ。 上高地の大衆化もよくわかる。 ウォルター・ウェストン(※2)が松方三郎に上高地の変貌ぶりを聞いて憤慨と言うのもうなずける。 もう上高地は「神河内」ではないのだ。

(※1)国澤満次郎
高等科山岳部卒

(※2)ウォルター・ウェストン
 ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861-1940)は、イギリス人登山家。 日本に3度長期滞在し、日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを執筆、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した。

輔仁会雑誌143号(昭和6年8月)
アルピニストのノートより 日本アルプス縦走記
山岳部 第三班 笠槍縦走紀行 周布光兼(※3)

7月11日(松本―上高地)
 松本飯田屋滞在~筑摩電鉄~島々(終点)~車で島々宿の清水屋ホテルの途中まで~以降徒歩で中の湯茶屋~釜トンネル~大正池
 しばらく進むと池の上に「みの」を着た岩魚を釣る漁夫が一隻の小舟とともに眺められた。 リーダーの加藤泰安(※4)さんがとてもいい声で、「ホーホ、ホーホ」と呼んでみる。詩的である。池が見えなくなる頃から路が悪くなってくる。急いでやっと梓川べりに出た。
 もうすぐ向こうに清水屋や自分等の今夜泊まるべき庄吉さんの小屋等が見える。( 中略)やがて庄吉さんも帰ってきた。
(中略)庄吉さんの手焼きの岩魚でだいぶつめこむ。そのうちに案内者中畠政太郎(※5)が来る。

輔仁会雑誌143号(昭和6年8月)

 周布光兼のこの記述を読むと庄吉小屋に泊まるとあるので、五千尺の小屋はもう借りていなかったようだ。 それにしても加藤泰安の美声のヨーデルが微笑ましい。 加藤泰安と中畠政太郎はこの年の12月に槍から西穂に挑戦したのだ。

(※3)周布光兼(1916-1998)
高等科山岳部卒

(※4)加藤泰安(1911-1983)
高等科山岳部卒
日本山岳会副会長

(※5)中畠政太郎
奥飛騨の有名な案内人

輔仁会雑誌160号 (昭和12年7月)
山岳部報告 土田新一(※6)

 河童橋を渡って丸西の親父に今年もよろしくと一通りの挨拶をして、山宿西糸屋へ行く。西糸屋主人の奥原英男さんは、例の愛想のよい顔を綻ばせて、僕と久米正七郎(※7)さんの2人を迎えてくれた。上条正雄(※8)さんを交えて4人の間には話の花が咲く。(中略)西糸屋主人の倉庫から、天幕用具を引っ張り出して、雑草の生い茂っている小梨平の天幕指定地に行き、天幕を張り終わった時は、ラテルネ(※9)を灯さねばならなかった。(後略)

輔仁会雑誌160号 (昭和12年7月)

 その頃にいまだに二代目小屋があったのかは判明しないが、夏の上高地行きは学習院山岳部の定例行事であったことがわかる。
 上高地キャンプ合宿を毎年続け、一般人学生に対する登山の啓蒙にも努めていたことがうかがえる。

(※6)土田新一(1918-1993)
高等科山岳部卒

(※7)久米正七郎
高等科山岳部卒

(※8)上条正雄
上條嘉門次の一族の猟師、案内人

(※9)ラテルネ
ヘッドランプ

「上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑤」から

「上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑦」へ

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