見出し画像

上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑦

学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘

 続いて、日本山岳会会報「山」の文章を紹介する。

1940年(昭和15)年発行の日本山岳会会報1月号(第91号)
土田新一

日光の山小屋 学習院輔仁会山岳部 土田新一
 (前略)昔…ホテルも森永のキャンプストアもなかった頃、既に史的事実となった常さん、庄吉さんの全盛時代…上高地に「学習院の小屋」があって、進歩的な優秀な登高をし、山から下りれば愉快な「暴れん坊」なる学習院の山男の根城として上高地名所だったそうだ。(後略)

日本山岳会会報1月号(第91号)

 最後に、槇有恒、佐藤久一郎両氏の記述を紹介する。

1974(昭和49)年共同通信社発刊
「松方三郎」松本重治氏監修

山と松方三郎 槇有恒
 大正年代は大学山岳部の活躍した時代であった。 それまでの探検的夏の登山からようやく岩登りとか積雪期の登山へと歩み出したところであった。 学習院でも松方三郎君などのグループが、そのような先導に立っていたと聞いている。
 学習院の仲間は上高地、清水屋の前方にあった梓川の中洲に小屋を持っていて、そこを根城に穂高等を舞台にしていた。(後略)

1974(昭和49)年共同通信社発刊
「松方三郎」松本重治氏監修

松方三郎さんと富士 佐藤久一郎
 松方三郎さんが23歳の夏、仲間と上高地に小屋を借りて滞在し、山の生活を楽しみながら、岩や技術を練習していた。 ある日穂高の急な雪渓で1人が滑ったため、ザイルを結んだ6人が数珠つなぎに滑り落ちて大きな惨事になるところであった。(後略)

1974(昭和49)年共同通信社発刊
「松方三郎」松本重治氏監修

エピローグ


 以上が「学習院 田代の小屋」探求の旅の結末である。
 「神河内」から「上高地」に変貌していく様子や、人々との温かい交流が手に取るようにうかがえる。 加藤泰安が中学生の頃、今西錦司氏と岡部長量のお燗番(※1)をさせられ、足りなくなった酒の追加を命じられ、清水屋に泣き泣き買いに行ったのはおそらく二代目五千尺の貸し小屋だと推定できるが、これ以上の詮索はあまり意味を持たない。

 大正から昭和の初期にかけて、これらの小屋を中心に確かな青春を過ごした者たちがいたのは事実なのだ。

(※1)お燗番
お燗番(おかんばん)とは、日本酒をお燗する人を指す。

「上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑥」から

「上高地キャンプ生活」へ

#学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部 #学習院山桜会 #山桜会 #大学山岳部 #高校山岳部 #登山 #アウトドアでたのしむ #アウトドア #山であそぶ #山岳部 #山 #自然 #上高地 #神河内 #部活の思い出 #学習院田代小屋

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集