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上高地「学習院田代小屋」探究の旅①

学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘

プロローグ

 小島敏武先輩(学習院高等科山岳部 昭和29年卒)の山桜4号「学習院山岳部史について」を読むまで、山岳部が上高地に小屋を持っていたとは知らなかった。この興味深い事実探究の旅に出かけることにした。
そもそもの発端は輔仁会雑誌の次の記事にあった。

輔仁会雑誌164号(昭和14年3月)
山岳部報告 特別寄稿 奥原英男(西糸屋(※1)主人)

 「学習院山岳部が最も華々しく活躍されていたのは何と言っても、大正十年前後だと思う。
 当時のメンバーは岡部長量(※2)氏を筆頭として波多野正信(※3)氏の諸兄が続き、国澤満次郎(※4)氏がリーダーだったと覚えている。 絶えず十数名の大勢が上高地入りしては盛んに登っていた。 (中略)最初はやはり天幕生活だったが、そのうちに清水屋(※5)の死んだ親父と交渉が出来、今の田代橋の橋と橋との空き地を借り、小屋を建てて、そこを根城に登行を繰り返していた。 そのうちに親父と意見が合わず、その小屋は慶應に譲って当方(西糸屋)と今の五千尺別館の間に五千尺の貸小屋があって、そこに移った。 それからはますます一段と登攀は烈しくなった。
 そんな次第で学習院山岳部は山の開拓者であり、また上高地の宣伝者でもあった。 日本アルプスをわがものに独占できる時代でもあった。 従って相当貴重なレコードを持っておられることと思う。 またキャンピングの創始者でもあり、国定キャンプの元祖でもあることになった。
 山と寒気、山男には酒はつきものと見え、よくお酒を飲まれていた。 小屋は二間三間の横屋にて、間口が広く奥行きの方が短く、奥一間通りは二段ベッドの寝間にて、入口手前の方の一間はすべて土間にて、何処でも自由にたき火ができ、やかんがかけられていた。 そしていつも一升瓶が山のように積み重なり、小屋の周囲も一升瓶で垣根になっていたと思う。 当時は徳本峠を越えるのだからうまいツマミもなく、常さん(※6)の岩魚位が上等のほうで、常さん等もいつも入り浸っては頬を染めていた。 (中略)丸西(※7)、五千尺(※8)、清水屋(※9)、常さんの小屋へとはしご酒をしたものだ。」

輔仁会雑誌164号(昭和14年3月)

 西糸屋主人の奥原英男氏は学習院山岳部の陰の功労者と言われ、往時の学生たちをずいぶんと可愛がってくれたそうだ。 この記述をよく読むと、初代の小屋は田代橋周辺にあったようで、記述後半の小屋の仕様はどうも二代目のようであり、それでは初代の小屋は正確にいつどこにあったのだろうと俄然興味がわいた。 往時の記録をくまなくチェックしていくと、私たちの身近なところからこの初代小屋の存在が浮かび上がってきた。

(※1)西糸屋
現在の上高地西糸屋山荘

(※2)岡部長量(1901-1929)
学習院高等科山岳部卒
戦前の高等科山岳部の牽引車の一人、1925(大正14)年に旅行部から山岳部に改称した。同年のカナダアルバータ遠征に参加、初登頂をしている。

(※3)波多野正信(1903-1930)
戦前の高等科山岳部の牽引車の一人、1925(大正14)年のカナダアルバータ遠征に参加、初登頂をしている。

(※4)常さん
内野常次郎(1884-1949)。奥飛騨の案内人で一番知られていた人で皆に「常さん」と呼ばれていた。

(※5)丸西
現在の上高地ホテル白樺荘

(※6)五千尺
現在の五千尺ホテル上高地

(※7)清水屋
現在の上高地ルミエスタホテル

「1930年度:「山桜会」創立、加藤泰安が積雪期の槍ヶ岳登頂」から

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