剣岳西面、山の気象判断を活かした山行(100年の自画像)(原文)
学習院大学山岳部 昭和34年卒 右川清夫
昭和33年3月、剱岳西面での合宿は、気象係は少なくとも一週間前から新聞天気図に注意して、その時期の天候周期や天候変化の癖に気をつけた。気象機関(お天気相談所)などを訪問して週間予想を聞いておく。これも天気図を見ながら説明してもらう。
天気は一時間におおよそ40キロで西から東へ移動している。予報には新しい天気図ほど、正確さも増してくる。携帯ラジオ持参で天気図を取る必要が生じてくるので気象係は山で天気図が取れるようになれておくことだ。持参する観測器具は、寒暖計、気圧計くらいで、雲と気象現象の記録が山行中の気象係の主な仕事であり、それに天気図による予報を加味して、あとは経験を活かして、その場その場で判断していく。観天望気は局地で短時間の予測しかできない短所はあるが、天気図と併用で気象判断した。
3月の剱西面山行は、分散型のパーテーでそれぞれ独自のチームカラーを活かし、団体登山の弊害を極力少なく、而も、機動性に富んだ山行きを計画した。総隊員14名で二パーテーに分かれ、早月尾根隊(L田中、玉田、練木、中村、武田、黒沢、野村、今村)、赤谷尾根隊(L右川、高久、川崎、高野、川村、古屋)
早月尾根隊は早月尾根を登って八峰のアタックおよび赤谷からのアタックパーテー収容を目的とし、他の一隊は赤谷尾根を登って剱本峰と毛勝岳アタックを目的とした。さらに好天気に恵まれたため目的完遂ののち、馬場島から小窓尾根の登攀にも成功した。
各隊に各一名の気象係を置き、それぞれ携帯ラジオで天気図を採った。一日の行動はだいたい13時には終わるスケジュールにしたので16時の気象情報を必ず取ることができた。特に慎重を期するときは22時のも取るよう心掛けた。また温度と気圧計測の記録用紙をあらかじめ刷っておき3時間おきの記録を忠実につけるようにした。
前もって気象庁から取り寄せた前線垂直断面図によって春先の気象状況は、2月下旬から参月初旬にかけての季節風の吹き出しで気温の低下した風雪の日は2月26日だけで、だいたい四日周期で天候変化しており、すっかり春型の気圧配置を示していた。そのため多量な積雪はなく、トラックも例年より奥まで入れるというので、安心して、富山に向かった。
3月2日(曇後雨)
列車の中から見た、剱・立山は約一千mの高さまで乱層雲が広がり曇りから雨となった。正午に前線が通過したらしく降ったりやんだり、15時には雄大な積雲が西の空に発達して一時は晴れたが夕方から降り始めた雪は富山市内で30㎝となり、西高東低の吹き出しの影響と思われた。この日富山気象台は風雪注意報を出し、日本海中部の低気圧の影響によって風雪が強くなるという予報を出している。登山届を出しに立ち寄った上市警察で早大山岳部員1名が小窓尾根で白萩側へ転落したとの知らせに驚く。しかし、1日午前の天気図では、温暖前線の前にあったから、気温が下がってもそう心配はないだろうと思っていた。前線通過までに白萩谷から抜け出せばよいがと思っていた。案の定沈着な早大山岳部は3日に無事全員下山したとのことである。
3月3日(雪)
お願いしたトラックは思わぬ大雪で、伊折のずっと手前の蓬澤までしか入らず、伊折までスキーをつけて入った。時々雲が切れて青空が見えるが、日本海側は真っ暗であった。伊折の中学校は、富山地方気象台の観測所になっていたので、この山行期間中の気象データを後刻参考資料としてGACあてに送ってもらうように依頼した。
3月4日(雪後曇)
今迄の経験から、同じ高気圧でも、上海あたりにあるものは、裏日本が晴れるとは言い切れないので慎重な予報を出した。正午頃より小降りとなった雪はゾロメキ発電所に着いて高曇りとなり、出発の15時には雪は止んだ。発電所を出発してから、下層雲を通して青空が見え、薄日が差し始める。
西方上空は青空で馬場島小屋から小窓尾根の末端を望むことができた。秋の荷揚げの時の感覚から馬場島小屋までならと高をくくって出たのがいけなかった。重荷には慣れているが新雪の中でシールをつけているもののスキーを穿いてのボッカには悪戦苦闘。伊折を少し外れた目印のクルミの木の根元に荷物半分をデポ。同志社の連中が逆ボッカに下ってくるのに出合い、お互いほっとする。
ラッセルしなくて済むからだ。夕刻には西日が雲を通してきれいに差し始め、明日は晴れるかと思ったが、7時のニュースでは上海の移動性高気圧が切れたことを知らせた。明日はボッカである。
3月5日(雪後曇)
まさに今日は朝から雪。正月の山で高気圧の習性を知らなかったためにひどい目に遭っていたので今日の予報は控えめに出しておいた。案の定、高気圧は本州の南岸を移動しているので日本海に前線が生まれ、朝のうち南よりだった風が午前中に北西に変わり、はなはだしい湿雪に見舞わられる。しかし、15時頃から曇りとなり風はほとんどなくなった。気温は零下4.5度。降雪の中、荷揚げに下った。
3月6日(晴、高曇り)
朝のうち一時晴れ間があって、剱岳を望むことができたが間もなく高曇りとなる。うす日が差し始めたのは夕方になってからで風もなく、夜になってまた小雪になった。気温は零下3度。この日は満州方面の高気圧の峰に入っていたが、九州南の低気圧の前面になってこの暖かさだったのだろう。伊折においても同様の記録がされている。
右川、高野が赤谷尾根の取りつき点を偵察1563m先まで行ってみる。腰まで潜るラッセルにあえぎながらも照り付ける太陽は全くの春である。剱岳の景観をほしいままにしながらぐんぐん高度を稼げるこの尾根も1500mまで行けば傾斜も緩やかになり、森林もまばらになり視界が開けてくる。
今はもう全天高曇りとなり時々涼しい南風がほてったほほをひやりとなぜる。始めて見るブナクラ乗越はどんよりした空の灰色と境目がよくわからない。持ち上げたスキーで赤谷尾根の下りを気持ちよく飛ばす。田中他の早月尾根隊は、ゾロメキ発電所においてある荷物を馬場島の小屋まで運んだ。
3月7日(小雪後曇)
小雪から曇りとなり降ったりやんだり、15時頃より主峰は見えないが、大窓あたりが見え始め明るいガスに覆われ、日本海方面も明るい感じだった。しかし夜になって星は見えず、気温は零下4度。低気圧が三陸沖に去り、そのあとの地上気圧配置は傾度のゆるい、はっきりしない型で何とも説明のつかない地上天気図だった。このあたり気象台の高層天気図で見ると、気圧の谷が去ったあと、次の上層の谷が接近してきている。馬場島ではあまりはっきりしない上層の影響だ。田中・練木が早月尾根の偵察に出た後、全員で装備と食糧の荷分けをする。全部で六百七十二キロの荷物を明日から、早月尾根、赤谷尾根に荷揚げをするのである。
午後は初めての停滞とする。田中・練木の早月偵察隊は1400m位まで行ったが腰まで潜り、雪の状態はあまりよくないらしい。明日から行動開始だが、我々の目的は赤谷のアタック隊をいかに早月パーテーで収容するかの行動計画を両隊で綿密に練り、日程を合わせた。天候如何で多少の食い違いはやむを得ないと思った。
3月8日(曇時々小雪)
高曇りで風もなく剣岳頂上が見えた。層雲の間に時々青空が見える。気温零下8度。
12時まで剱主峰が見えたが、13時には小雪となり風が吹き始める。午前は山陰沖の低気圧の前面で晴れたのであり、午後はこのため小雪となった。相変わらず大陸の高気圧が弱いので、吹き出しがなく、気温は下がらない。この日伊折が曇りだったことは、低気圧の接近に伴い山に近いほど降雪が早いことがわかる。この日、C-1へ食糧をデポ。正午にC-1でちょうど早大の村木さんが下りてこられた。デポをし終わるころから、ちらつき始めた小雪の中をBHに下った。
3月9日(吹雪)
朝焼け。零下2度、層雲が広がっていたが、日本海方面が明るかったので天気はそんなに悪くならないだろうと思った。しかし赤谷稜線に出たころは吹雪となる千島沖の低気圧からの前線が伸びたものらしい。赤谷尾根隊はC-1(1560m)で雪洞を掘る。6人用の大きなものだったが、南面だったので地面が出てきてしまった。早月尾根隊は今夜はC-1(1900m)どまり。夜は晴れる。九州方面から伸びた移動性高気圧の峰に入ったものと思う。
3月10日(快晴)
零下10度。西風7時30分。小さな巻雲が出始める。9時に日本海に箒ではいたような巻雲が二つ。雲が少ないために空気が乾燥し、雨や雪が当分降らないことが予想された。春風そよ吹く登山日和。富山平野には煙霧層ができ、かすんで見える。15時には巻層雲ができ始め、高曇りとなる。赤谷山頂では風雪となった。しかし一歩C-1の1560mに下れば風もなく、西方がだいだい色に彩られ、見事な夕焼けだった。この日の前線の通過は2千メートルの高さだったようだ。この高さの前線は地上でも雪は降らない。気温は夜になっても下がらず、一晩中雪洞の水滴に悩まされた。朝鮮に移動性高気圧が生まれた。伊折ではこの二十日間における湿度が最低を示し気温はその日までの最高を示して申し分のない快晴だった。
赤谷尾根隊は、C-1を経て一挙に赤谷の山頂に伸びた。馬場島から最後の荷を背負い早月尾根隊に仲間たちとの剱頂上での再会を約してBHの馬場島小屋をでる。通いなれたルートなのでスキーの着脱などはスムーズになりピッチも慣れてきたので、10時にはC-1に着く。荷分けして3人4日分の食料と装備を持ちC-2設営に向かう。
剱岳上空に薄い巻雲が出る。撤収してきた早大パーテーに会う。太陽が照り付け重荷にあえぐメンバーの着衣は夏山と変わらない。だらだらとしたひろい尾根が終わるとぐいーんと最後の登りにかかる。ここで初めてアイゼンをつける。日本海方面に層雲が出てきて天候の変化を知る。風も弱くなりようやく赤谷山頂に着く。
主稜を多少南下しようと思ったが時間も遅くなるので山頂の大きな岩陰に幕営を決めた。やがて吹雪となった。設営を終わり一応の形が付いたので、川崎、高野、川村の3人をC-2に泊まらせて右川・高久・古屋の3名はC-1に降る。
アイゼンをつけてコルまで下れば風もなくなり、雪もやんだ。日本海方面は西日の前面に山と雲がシルエットとなってだいだい色の絵画のようだった。
3月11日(快晴)
巻雲が大日岳上空にひとはき。大窓より差し込む日光が白萩谷をまぶしく照らし、西面いっぱいを明るくしている。雲はなく、南風、15時頃より風が強くなり、層雲がかかる。本州南岸を低気圧が接近してきた影響とみられる。渤海湾にまた移動性高気圧が東進している。
12時の天気図では四国沖の低気圧が北上する可能性が強かったので、移動性高気圧のある満州方面の気圧には大して注意を払わなかった。今日まで恵まれた天気にしごかれた体を明日の低気圧がもたらす悪天でゆっくりしたい気持ちでいっぱいだった。この日、赤谷山山頂のC-2(2260m)に集結、剱岳へのアタック体制を完了した。
3月12日(快晴)
四日に一度は休養すべしという山の常識と晴天を見逃すなという常識に挟まれて迎えた快晴。午前2時剣頂上上空に三日月がさえ、満天の星空、富山の灯がちらちら見え薄い霞が見える。天気図は温暖前線による逆転層(気層の関係から頂上の気温がふもとの気温より高いことを逆転層という)が現れており、晴れを予想して出発を決めた。
鹿島槍、白馬、毛勝にもガスがかかっていた。ガスは東進していた。白萩山を過ぎるころから、風が雪庇と逆に吹いていることに気が付いた。前日12時の天気図で四国沖低気圧が今ようやく中部地方を東進していることが分かった。
日本海方面が非常に明るい。今、雪庇と反対方向に吹いている風も低気圧の圏内にあるからで、この速度なら大窓に着くまでには低気圧は去り、高気圧圏内に入れば風は雪庇と順方向に吹くだろうということが分かった。反対に今迄雪庇に順風であった時には逆風になれば悪くなるという経験はいくつもあったが、こういう経験はこれで二度目であった。
果たして予想通り、赤禿の頂上に着いたときには風は北西に変わっていた。我々は冬の鹿島槍で雲の動きにばかり気を取られていて、雪庇と風の関係に気をつけていなかったばかりにみすみす好天を見逃したことがあったのだ。大窓に着いたとき剣頂上へのアタックを決定した。川崎・高野のアタック隊員を大窓までサポートした右川は翌日も快晴を予測したので、毛勝岳往復を心に決めて赤谷のC-2に引き返した。
右川、川崎、高野は8時に大窓のコルに立つ。この時3人共が今日が攻撃日であると暗黙の内に決めてしまっていた。そこで、せっかく持ってきた食糧の内から適当なものを特大ザックに入れた。サポート隊の高久、古屋、川村のことを思い右川リーダーの胸中を察し握手を交わして「慎重に行けよ」の声を耳に8時30分別れる。
川崎・高野は赤禿山には少し右寄りから取りついたが見た目より傾斜は急で雪は凍っており、ここを30分で登り切り、行く手を見ると池の平山まで予想外に凹凸のピークが長く続いていた。大窓のピークから3番目のピークは約10m垂直に立ちはだかり、小黒部側のトラバースも不可能ではないがしょぼそうだ。真ん中のルンゼ上のところに古い細紐が一本垂れ下がっているのを幸いに強引に小さな木と岩につかまって乗り越してしまった。あとは池の平山まで昨春の横尾尾根の歯を思い出させる。稜線伝いに一か所小黒部側の灌木のトラバースにザイルを使っただけで忠実にたどる。懸念した後立山の雲は消えて無風快晴の春の日和となった。
池の平山から小窓の下りは、急で、雪が腐り、アイゼンの雪を落としながら慎重に降る。ザイルをピッケルジッへルしながら交代で降りる。万一の場合もザイルが立ち木にかかるように留意しながら6ピッチ2時間をかけて下る。最後は空腹と緊張の連続から休息の必要を痛感しながら小窓のコルまでと頑張った。
雪の状態を考慮し小窓尾根に突き上げるのは夕方の雪の締まるの待つことにして、絶景を楽しみながらエバミルク、ソーセージ、蜂蜜、チョコレートなどをブランデー、レモンを飲みながら一睡した。
東面の雪は締まっていると判断して十四時出発。小窓王から数えて三つ目のピーク、すなわち右から二番目の尾根にとりつく。アイゼンを蹴りこむとツアッケ四本が完全に効くに任せて小窓の稜線に出た。それからはアイゼンの効くに任せて小窓の雪渓を見ながら小窓王の下までトラバースする。
問題の小窓王のトラバースは雪が腐りピッケルでジッヘルしながら逆さ向きに一歩一歩不安定なステップを切って3ピッチで下りきる。三の窓で2回目の食事をして池谷ノコルを目指して出発。雪と岩との境を忠実にリッヂに沿って歩くが、何回か通ったこのリッヂも長く感じられた。
長次郎のコルで暗くなり、懐中電灯を出し最後の登りになる。固くなってきた急斜面をステップを切りながら進む。稜線に出る。GACの標識はあるがテントの影もない。こうなったら早月尾根を馬場島まで下るしかない。赤谷頂上と懐中電灯で決められた交信をしながらの下山である。途中同志社大のテントで温かい紅茶を御馳走になり、懐中電灯をお借りして、2300mの早月隊のC-2を目指して下ってゆく。テントキーパーに取らせておいた今朝6時の天気図は帯状高気圧で大変安定した気圧配置なので明日の毛勝を楽しみに就寝。寝静まっているC-2の連中を驚かせたのは22時30分だった。
3月13日(快晴)
午前2時。北風。月に薄い隈がかかり、上空が星空。気温は暖かく高層雲が心配だったが、天気図で快晴になると判断。毛勝山に向かう右川、高久、川村、古屋の4名は、7時猫又山通過の際に薄い巻層雲が上空を覆った。富山方面は煙霧。10時毛勝頂上。次の低気圧が接近しているらしく、南風が強まってきた。太陽は暈を被り、薄い巻層雲のベールを通してだが、日差しは強い。15時、西方に波状層積雲を認めた。
この日のブナクラ乗越から赤谷山の登りで、振り返ると今来た稜線の山肌に黄色味を帯びた黄砂がはっきりと見て取れた。黄砂は寒冷前線に伴って飛来する。一昨日の通過がもたらした状態がそのまま残り黄ばんでいるのだろう。黄砂はホクし、もうこの黄土地帯で吹き上げられ、多量の砂塵が空中に舞い上がり、南方の太平洋上を航行する船の甲板上に積もることもあるという。夜は風強く、天候悪化の兆候が見て取れた。九州に低気圧が接近、16時赤谷頂上に戻った。この日非常にのどの渇きを覚えたのはこの地方特有のフェーン現象のためと思われた。これは九州低気圧からの湿った暖かい風が本州中部の山を登るにつれて雲を作り雨を降らせる。百メートル登るごとに約0.5℃の温度が下がる。そして日本海側に抜ける時、百メートル下がるごとに一度ずつ上昇する。これによって前より湿度が下がり空気が乾燥する現象なのだ。一方早月尾根隊はC-1の荷上げ隊が到着するのを待って、八峰アタック隊(田中、練木)にACキーパーの野村を加えてC-1を12時過ぎに出た。カニのはさみ手前の同志社大の天幕で熱いコーヒーを御馳走になり、頂上に6人用天幕を設営。天候が崩れ始めたので、玉田以下はすぐにC-2に戻る。
あとは八ッ峰を攻略するだけだ。幸い天候は崩れてくれて、アタックの前一日の休養日がとれた。3mの天幕の中でラジオに耳を傾けて黄色いレモンをかじった。
3月14日(雨)
雨で停滞。待望の休養日となった。9時には霧雨であるが、あかるい。十二時視界20mでガス。15時には視界0mとなる。18時西風に変わる。雲海が700mくらいの高さで富山平野を覆って、その上を夕焼けが照らしていた。21時には満天の星空。この日の伊折が晴れとなっているのは前線の影響が地上まで達しなかったからだと思われる。湿度が高いのは赤谷での雨と対応する。
一方早月尾根隊も停滞。行動は予定通りだが、C1・C2への食糧、燃料の荷揚げ量が一日分の行動に対して三日の余裕を見たため、好天が続けば停滞予定日の分量は割徐すべきだった。劔西面の天候を悪く深刻に考えすぎていた。しかしこんな連続快晴は常識では考えられない。天候判断に基づく荷揚げ量に今少し慎重だったらAC建設はもう一日早められただろう。
風は絶えず北西から吹き付ける。積雪5センチ。春にしては乾燥雪だ。しかし冬の乾燥雪と比べれば比較にならない程、粘り気がある。夕刻になるほど八峰に対する懸念が襲い掛かる。八峰の参考文献は皆無に等しく、五・六のコルより上部も正確な記録を探すことはできなかった。上半にしても下半にしてもリッヂに出るまではひどいラッセルを強いられる。所要時間は雪質の如何により分からない。雪庇とナイフリッヂの連続だ。しかしやるなら下半から忠実にリッヂ通しに八峰の頭までを通したい。
食料は行動食4食分。食べ伸ばせば三日は持つ。装備も露営用具も一式ザックにしまった。夜、寝静まった天幕の闇の中で、恍惚と不安が行き来する。空には星が輝いている。
3月15日(晴後雪)
昨日の雨で剣の雪はだいぶ落ちてしまった。けさは早月尾根末端方面もよく見えて雲海はない。太陽は出たが、朝焼け気味。中国大陸より低気圧の接近をラヂオで聞く。西方に乱層雲が近づきつつある。零下七度、薄曇り、西の風。十二時より粉雪が舞い始め。風が強くなる。昨夜は星空だったが暖かだった。天気図では低気圧の前面にあり、この日、赤谷尾根隊は赤谷山のC-2を撤収、馬場島へ下る。一方早月隊は食事当番の「快晴ですよ」という明るい声に飛び起き、心づくしのラーメンを流し込んで4時40分、八ッ峰へ向かう田中、練木の二人はピッケルを振って明るみ始めた後立山連峰に朝の挨拶。
天幕から長次郎のコルに下る岩稜に意外に時間を取られコルに立った時は、山はモルゲンロートに輝き、次第に朝焼けの不気味な虹色に変わっていった。旧雪はクラスとしており昨日のわずかの雪が適当にパックしているので沢は雪崩の心配はない。
6時10分、長次郎沢を降る。体重と膝のバランスで泳ぐようにグリセードで下る。雪は全く潜らない。出発して17分で一・二ノコル下に着いた。八峰は雪のナイフリッヂ。巨大な雪庇が延々と,三の窓側に張り出し、壮絶な稜線に圧倒された。食事をとりながら一峰の往復は時間がかかりそうなので断念し、一・二峰間の急峻な沢をルートにとり三峰の稜線へ踏み出す。三の窓側に出ている雪庇は、最後の降雪の時にできたものでそれ以前の雪庇は長次郎側にも出ている。四峰の下りも這い松を利用して三峰の下りと同様アップザイレンで乗り切った。苦しめられたのは雪庇の不安定な断層とピーク上の巨大なブロックの積雪で、それを切り崩して乗り超えるには微妙なバランスが要求された。五峰に着いたのは十時過ぎ、直接五・六ノコルに下降するにはザイルが足りないので長次郎側を絡んで降る。
練木がトップで、五峯の腹を巻き気味に15m下り、アップザイレン用の太い這い松の根を見つけ、一気に五・六ノコルに続く雪渓に向かい雪のルンゼを後ろ向きにステップを切って下った。このくだりに2時間を要し、五・六ノコルに立ってほっと見上げると、劔のACから合図があった。今日のアタックを予想して、C-2の玉田、中村、黒沢、今村の四人が撤収準備に登ってきたのだ。望遠鏡で眺められていると思うと、苦し気な顔もできず、手を振ってこたえる。今迄緊張の連続できずかなかったが、朝焼けは正直に天候の悪化を告げていた。後立の山々に襲い掛かる茶褐色の霧、ざわめき立つ劔の頂上もやがてガスが垂れこめていた。簡単に昼食。1時20分コルを出発。
4時30分、六峰のピークに立つ。小雪がちらつき始め、視界50m。姿は見えぬが、雷鳥の激しい羽音と鳴き声が風に交じってきこえる。六峰からはナイフリッヂの連続。ここまでの雪庇は主として三の窓側であったが、ここから上は長次郎側にぐんと突き出し、不安定な雪庇の断層がますます視界の効かなくなった我々を脅かす。天候はますます悪く、北西の風が横殴りにたたきつけて、暮色も迫り、視界は5m前後となった。足元の稜線の形もよく見えない。ルートは三の窓側にとってトラバース気味に七峰を乗り切る。あとは八峯の登りだけだ。稜線は雪で覆われ、午後7時主稜線に出た。
すでに垂れこめた闇は、早くACへと気は焦る。半時ほど懐電でルートを探ったが、危険を感じたので、八ッ峰頭でビバークと決めた。靴下を履き替え、かもしかの尻かわを敷いてツエルトを被れば、天幕より気が楽だと強がる。吹雪は相変わらずひどいが、ローソクの火と豊富な食糧が今までの苦難を吹き飛ばしてくれる。
3月16日(快晴)
低気圧は高気圧に押し下げられて太平洋の東方に去って、朝のうち高曇りであったが、のちに快晴となる。馬場島の強い太陽光線は夏を思わせる暑さだった。赤谷尾根隊は早月隊の下山を待って休養日とした。天気図は帯状高気圧、これを見逃すのはもったいない。明日、小窓尾根に高久、川崎、高野と早月尾根に川村、古屋の日帰りパーテーを出すことを急きょ決めた。
一方八ッ峰の頂上でビバークした田中・練木の二人は、一夜明けて昨日の昨日の吹雪がうそのよう。ツエルトの布から透かして見えた濃紺の空は新鮮で明るかった。体を乗り出してヤッホーを送るとACの黒い人影が振る手が風車のようだ。6時30分に凍ったツエルトを背中に括り付けて八峰の頭から雪の小ルンゼを直接長次郎に下り池谷コルへ出る。昨日の二人のトレースが八峰の稜線に鮮やかに輝いている。
田中、練木は、午後源次郎を断念してBHに帰ることを決め、野村と交代した玉田、黒沢の先導でC-2に帰った。
3月17日(曇りのち小雨)
気温は暖かだったが、満天の星空。川崎、高野は、小窓尾根に登頂の望みを天気の進み具合にかけて出発。気温5度で薄曇りとなったのは、天気図通りの低気圧の接近だ。今迄薄日が出ていたのも12時には隠れてしまい、前線の薄い波状層積雲が日本海に近づいてきた。14時40分、劔の頂上を踏むころ、紛雪が強く降りしきり、視界50mくらいとなった。12時には南西であった風が、15時には北西に変わった。低気圧の接近だ。しかし17時頃にガスが登り始め雨が降ってきたが、西方の雲が割れ始めた。天気は良くなるかと思ったが夜は雨だった。これは低気圧直前の欺瞞型暖域の通過を示すものだった。伊折は曇りだった。
一方八ッ峰隊(田中、練木、玉田、黒沢)C-2を撤収して一気にBHに下る。我々が3月7日に始めてトレースした早月尾根はあたかも銀座通りの観を呈して、登山者が後を絶たない。連日の快晴で雪も解けて地肌が見え春の息吹が木々の芽に感じられる。
一方赤谷パーテーのメンバー、高久、高野、川崎が午前2時起床で小窓尾根に出かける。食事当番は川村、古屋だ。3時15分アイゼンをつけて真っ暗な闇に飛び出す。昨春の甲南、先月の早大のアクシデントと偵察時のルートを考え合わせながら、白萩側に出た大きなデブリを三、四か所越すうちに池谷の出会いに出る。少し遡行して第3ルンゼから取りついた。高久、高野の咳が気になる。多くのパーテーで踏み慣らされたトレースを追って30分で稜線に着いた。同じコースでありながら昨秋の半日がかりのやぶ漕ぎの苦労が思い出される。高度を稼いでいく途中、京大のデポを通り過ぎ、1900mの早大のC-1跡に来て、これから注意を要する場所だと心に決めて、一本たてる。高久が体調不良で迷惑掛けたくないと、ここで引き返す決意をした。
今日の天気は午前中いっぱいだと皆で確認しあいながら、ピッチをあげていく。先ず白萩側を巻いて8時30分分、ニードル頂上。我々が三本足カンテと呼んでいた下も大きく池谷側をトラバースして再び稜線に出る。ドームも池谷側を巻く。トラバースは急斜面だがのぼりは大したことはない。それから白萩側を巻いてマッチ箱の下に出るのだがここのルンゼもピッケルでステップを切って足場と手掛かりを作り乗り切る。ザイルは出さず、あとで先輩から、怒鳴られたが、ザイルなしで動けないところではなかった。ここをボッカルートに選んだ早大の意気に感じながら、11時時10分、マッチ箱の上で昼食とする。これから後、赤谷からの時は白萩側を巻いてしまったので、面倒だが忠実にリッヂ通し岩と雪の境を歩いて小窓王の下に出ることにした。途中早大のC-2あとの直下に2mの亀裂が入っていて、雪崩れる寸前だったのが印象に残った。小窓王のトラバースは雪が締まりアイゼンが効き,三の窓に立った。ここに同志社のC-5のテントが張ってあり、お茶を御馳走になった。雪の締まるのを待って池谷に下る。小窓王の下にハーケンでツエルトをつるし昼寝をしていると雪で重くなっている。積雪が深くならぬうちにと、池谷目指して下る。雄大な池谷に真っ暗なガスがかかり、劔岳西面の観天望気について特に言えることは後立山連峰と違って、西に山がないから山が雲に隠れたとか、はっきり見えるとかを目安にできない。日本海方面の空の明るさ、西方上空の雲の形、動き、高さなどによっての判断の仕方を、アタック体制を整えるまでにつかんでおく必要がある。
主稜線から見ても、毛勝の右側の空の明るさは余り頼れないが、左側、西方上空から白山方面にかけての雲の動きなど降りしきる雪が両壁を流れている。30分後劔尾根末端まで来ると急に開けて、傾斜もぐんとゆるくなる。16時30分今朝の池谷出会いまで下る。昨秋の三日間の偵察の苦闘がこんなに簡単に終わったのがうれしいようながっかりしたような気持ちで、馬場島の小屋に着いた。
3月18日(霙で停滞)
天気図によれば発達した低気圧が三陸沖にあり、今日の悪天をもたらした。それより前線が華北にある低気圧に連なり満州と東シナ海にある高気圧があるが、十九ミリメートルなので、弱い。ラヂオによると、明日はこの高気圧で一時晴れるが、すぐ雨になり、富山地方気象台の今後一週間の予報も、あまりよくないというので下山を決定した。
3月19日(雪)
粉雪降りしきる中を富山に向けて出発。
正午ごろから小雨となり14時に雲が割れ始め千メートルの高さまで視界が効くようになった。青空がちょっぴり顔を出し雲量は9くらいであった。
結果と反省
今回の山行きで気象判断の誤りによる事故がなかったこと。適切な気象判断の誤りによっての事故がなかったことは際幸いだった。は、判断の役に立つ。劔西面に出ている各尾根の雪庇は風の関係でどちらかの側に出ているとは決まっていないから、ガスがかかった時、雪庇のつき方だけを頼りにできないし、そのための雪庇の踏み抜きに注意は必要だ。
全般に、15時くらいになると風が強まり、行動が制限された。過去に見る記録では、悪天候で定評があった劔西面で、これだけの行動ができたことは今後の参考になろうと思う。
半面、我々の判断にまだまだ甘いところも多く、例えば17日の低気圧の発達速度は、明らかに予想より早く、焦ったりした。高気圧の北偏によって劔にいた我々が恩恵にあずかった事例は、天気図をうまく利用した顕著な記録である。
(注釈 当時の天気図は、気象庁提供による)
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