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上高地「学習院田代小屋」探究の旅⑤
学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘
さてこの小屋を慶應に譲ったと言う奥原英男氏の証言の裏付けを取らねばならないと「登高行」を調べてみたら次の記述に出会った。
登高行第4年 (1921-1923)(大正10-12年)
「年報(上高地・穂高登山)」大正11年度
慶應:早川、大賀、渡部 学習院:板倉勝宣、伊集院虎一(※1)、松方三郎
7月8日 飯田町発
7月9日 島々、徳本峠、五千尺
7月10日 上高地清水屋の小屋に移転
慶應が借りていた五千尺の小屋から、いわゆる田代の小屋に移転したように取れる。書き人知らずの「小屋」では大正11年はまだ学習院田代小屋であることが明らかだからだ。
それでも慶應と一緒に登っていたことが判明したが、いつ譲ったのかはわからない。
(※1)伊集院虎一(1899-1975)
学習院高等科山岳部卒
登高行第5年 1924(大正13)年 10周年記念号
「ある登山小屋の備え付け日記帳から」
<要約>
Keio Alpine Clubとノートに表題
要約詳細は「学習院登山史Ⅰ(1887-1953)」「登高行にみる学習院」を参照。
「この小屋に泊まるものは慶應義塾山岳部の部員、並びに登高行会員たる者、及び部関係者に限る」と書かれていた。
場所は幅の広い大きな谷のなかの林の間に建ててあり、すぐ横にはきれいな小川が流れているとある。
また、その小屋はその地の温泉宿からの貸し小屋であり、夏の間中借り切っていたとある。
大正12年7-8月 波多野正信 宿泊
大正13年7-8月 岡部長量、波多野正信 宿泊
登高行第6年 1925(大正14年)
「春の槍ヶ岳と西穂高岳」今岡義夫
長い梓川の河原を平地滑走して河童橋の手前の河原にある小屋に入ったのはもう日没を過ぎていた。 この小屋は今日まで学習院が借りていたのだが、今連中は山へ行っているので留守だ。」
どうもこの小屋は河童橋周辺とあるので奥原英男氏の言う二代目のいわゆる五千尺の貸し小屋のようだ。 学習院と慶應が交互に借りていたようにも取れる。 ただし、波多野正信が大正12年の7-8月に泊まっているので、その頃田代の学習院小屋はなくなっていたと思われる。
登高行には学習院から小屋を譲り受けたとの記述もない。
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