南極 「古き良き日々の追憶」(要約)
学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘
太線で示される北緯・南緯60度線は、 地球の赤道面より北・南に位置し、南緯60度線は南極地域の境界となっている。 南極条約では南緯60度線以南を「南極地域」と規定しており、 軍事的利用の禁止や領有権の凍結がされている。 極圏には北極圏と南極圏があり、 それぞれ66度30分の緯線で区切られている。 北極圏は北半球、 南極圏は南半球に位置しており、 極点を中心とする地域を極地と呼ぶ。 極地の探検史において、日本人が初めて登場したのは1912年の白瀬隊で、 南極点到達は1968年に第九次越冬隊が達成した。 南極の探検は「探検時代から観測時代」へ移行し、 1968年の南極点到達は「極点旅行」と呼ばれる計画で実現された。
学習院登山史Ⅱの編集において、昭和30年から45年までの15年間が重要で、 ヒマラヤの未踏の山々が登山可能な状況で、 各大学山岳部とOB会が奮起し成功を収めた。 本院がなぜこの期間に「単独ヒマラヤ遠征」を行えなかったかは複数の要因があり、 その最大の要因は旧制学習院が大学を持たず、 山岳部が旧制中学・高校生で構成されていたことである。
学習院登山史Ⅱの編集条件として、 「本流史」と「支流史」をはっきり分けて記述する必要があり、 海外遠征史では自己が企図し成し遂げた遠征と他組織に参加した遠征を別物として評価されるべきとされる。
南極観測隊への参加は「支流史」であり、 学習院関係者が計画に深く関与したことは学習院のドキュメントとして長く伝承されるべきである。 学習院大学山岳部は昭和30年から45年までの環境下でヒマラヤ遠征への野心を抱いていたが、 なかなか実現しなかった。 しかし、 1964年にアラスカ・カナダのローガン峰遠征を成功させ、 その後南極トラバース隊に参加するチャンスが生まれた。
1968年に第9次極点旅行隊が南極点までトラバースし、 その際には本院から川崎巌さんが参加し、 南極からの帰還後、 1970年のエベレスト遠征に参加するチャンスが訪れた。
南極を選択した川崎さんに代わり、 山桜会は錦織英夫君を推薦し、 著者も9次隊の設営部門の欠員で補欠として参加することになった。
9次隊は、 昭和42年の夏に第9居住棟と第9発電棟の建設を目標とし、 福井の建設プロがミッションの一環として派遣された。 建設作業は厳しい環境で行われ、 山岳部のメンバーが厳しい扱いを受けた。
高所で働けるのが本物の「鳶」で、 地面で働くのは「地走り」とされ、 地質学者出身のメンバーは「鳶」に任命される。 建設作業は困難を伴ったが、 建築図面が地盤に適していない問題も発生し、福井の兄い(設営部隊のリーダー)がその魔法のような対処法で基地建設を成功に導いた。
隊の思い出として、二つのご褒美が与えられた。
一つは内陸部20km地点において大量の燃料を整理。 もう一つは西オングル島への遠足旅行で福島紳さんを発見したこと。 村越望氏が優れたマネジメント能力を発揮し、 9次の越冬成立に寄与した。
南極観測隊はマネジメントが極めて重要で、 設営担当責任者の中心人物が村越望氏であった。 しかし、 その後山桜会の南極関係者が集まっての懇談や報告書の編集がなく、 その点が奇異とされている。
山岳部の伝統や「Individual精神」により、 南極での活動が他校のように部員の活気を生まなかったことが残念である。 南極やエベレストへの遠征の後、 本院山岳部はライト・エキスぺディションに活路を見いだし、 活動していくことになった。
現在、 山岳部の存続の危機にあるが、 イノベーションを促進し、 新しい価値観を創造するためには、 「ラテラル・イノベーション」が必要である。
※「ラテラル・イノベーション」
山岳部が長らく追った垂直志向の「バーティカル・イノベーション」ではなく、 やり方を劇的に変更し、 水平志向の新しい価値観を創造すること。
南極の山々を「一筆書き」で踏破するような新たな登山家が登場することが望まれる。
「Japanese Antarctic Research Expedition 南極 ― 古き良き日々の追憶 ―(南極観測隊)(原文)」へ
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