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創部「登山、スケート、スキーこと始め」④

学習院大学山岳部 昭和42年卒 石川正弘

輔仁会雑誌の主要記録(その1)

1.輔仁会雑誌71号(1906(明治39)年12月)
「湖上のスケーティング」 伊達九郎(二荒芳徳)
 1906(明治39)年12月に長野県諏訪湖で学習院の学生としては初めてスケートを行う。

2.輔仁会雑誌77号(1909(明治42)年3月)
「氷滑日記」 酒井四郎
 1908(明治41)年12月24日-1909(明治42)年1月9日、長野県下諏訪の丸屋をベースにスケートに興じた。 結氷が最も早い岡谷の「字間下」で練習。 全面結氷は1月。 下諏訪から馬車、または汽車で通う。 スケート教師は諏訪中学のスケート選手の小口卓襄氏。
 伊達九郎は学習院のスケートの元祖。 既に3-4年の経験者と記載されている。

3.輔仁会雑誌82号(1910(明治43)年11月)
「第2回氷滑日記」 伊達九郎(二荒芳徳)

 1909(明治42)年12月27日-1910(明治43)年1月6日、下諏訪の丸屋をベースにスケートに興じた。 文中に諏訪は5年目で、1906(明治39)年が初回と記載あり。

4.輔仁会雑誌86号(1912(明治45)年3月)
「スキー紀行」 伊達九郎(二荒芳徳)

 1911(明治44)年12月某日、レルヒ参謀中佐、鶴見大尉(※8)(第13師団歩兵第58連隊スキー研究委員)が諏訪の氷滑場に来訪、スキーの話を聞く。 12月某日夜、丸屋にて両氏の歓迎会を開催。 鶴見大尉よりスキーの指導をするから新潟県高田に来訪しないさいと助言をもらう。

 1912(明治45)年1月2日、急遽夕方6時の汽車で高田行きを決定。 下諏訪の駅で高田の3駅手前でスキーをしてきたアメリカ人に出会う。 スキーを初めて見る。 7尺あまりだった。 丸屋で同宿のスイス人モルゲル氏の見送りを受ける。 1912(明治45)年1月3日、午前3時ごろ長野着。 駅前の宿家で6時に上野から来る下り列車を待つ。 7時高田着。当地の長岡屋に電話し、スキーを借りて第13師団歩兵第58連隊の営庭の裏山で鶴見大尉と練習。

 午後2時からレルヒ中佐、山口少佐が来るのでよく習いなさいとの助言。 午後2時からレルヒ中佐の訓練を受ける。 高田館に宿泊。 1月4日、レルヒ中佐より、薬師山に行って訓練を受けた後、レルヒ中佐のご自宅を訪問。 閣下もおられた。 1月5日の夜12時の汽車で帰京。

(※8)鶴見宜信(1879-1941)
最終階級は陸軍歩兵大佐
当時、陸軍第十三師団歩兵第五十八連隊(現在の上越市高田)の大尉。 1911(明治44)年、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍少佐テオドール・エードラー・フォン・レルヒよりスキー専修員班長として指導を受ける。 ドイツ語が堪能だった鶴見は、レルヒ少佐の通訳に抜擢され、彼を補佐しながら各地でスキーの指導に当たった。 退役後、1939年(昭和14)年に日光町長に就任。

 栃木でもスキーの発展に情熱を注ぎ、湯元にゲレンデを開発(現在の、湯元スキー場=学習院高等科山岳部がたびたび利用している)。

「創部「登山、スケート、スキーこと始め」③」から

「創部「登山、スケート、スキーこと始め」⑤」へ

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