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大ヒット中の書籍『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』 冒頭の約50ページ分を特別無料公開!


2024年4月に発売してから「面白すぎて一気読みした!」とのお声を多数いただき、17万部の大ヒットとなっている書籍自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』の冒頭約50ページ分をどどんと太っ腹に特別無料公開します。面白かったらぜひSNSでシェアしてくださると嬉しいです。

はじめに


虚無!

32歳。無職になり、離婚して、実家のふとんに一生入ってる。

◆ ◆ ◆

人生のピークは18歳。東大に合格したときである。

地元は小さな田舎町。
合格発表の次の日には、町の有名人になっていた。近所のスーパーで、とつぜん、知らんおばちゃんに力強く両手で握手された。

「東大、受かったんやってねぇ、すごいなぁ!」
おばちゃんは泣いてた。
あれ誰やったんや?

そんな「田舎の神童」だったぼくが、「職」「家」「嫁」を失って、「一族の恥」として実家にもどってきた。実に14年ぶり。

近所の人に見つからぬよう、深夜1時から海にむかって散歩する。よく釣り人にみつかるけど、たぶん幽霊と思われてる。

ふとんから出られない。

「なんか、めちゃくちゃ虚しい」

というだけの理由で。

「働く意味」がわからなくなった。
「売上」「お金」「成功」
ほしいはずなのに、ほしくない。
がんばりたいのに、がんばれない。
こんな理由で、働かないの、ナメてる。自分でもおもう。
このままだと、一生ふとんに入ったままだ。

◆ ◆ ◆

この虚無感、どうすりゃいいんだ!?

その答えをもとめて、いっぱい本を読んだ。

まず、自己啓発書を読んだ。
うそ。読めなかった。

「好きなことみつけよう」
「強みをいかそう」
「成功しよう」

ぜんぶ、生理的に無理になってた。
いまこの言葉にふれるだけで、虚無感が10倍増しになりそう。

次に、哲学書に手をだした。
いわゆる「西洋哲学」である。
デカルト、カント、ヘーゲル。
名前をいうだけで自分がすごい人間になった気持ちになれる。

みんな、めっちゃ虚無感かかえてそうな顔。(暴言)

最強の知性をもつ彼らなら、虚無感をのりこえる方法、知ってるはず。
ところが問題があった。

西洋の哲学者は、「生き方」にあんま興味がない人がおおいのだ。

なんでやねん。
頭良すぎて、「認識とは何か」みたいな、おそろしく抽象的なことを哲学してる。
ふとんから出るどころか、むしろ永遠にでられなくなりそう。
おれはこんなこと考えてる場合じゃねぇ。

それでも、ひとり、いるのだ。
ドンピシャで「虚無感」を哲学してる人が。
ニーチェである。

19 世紀ドイツにうまれた、哲学界のスーパースターだ。

ニーチェが虚無感の克服をテーマにかいた『ツァラトゥストラはかく語りき』という本には、こうある。

わたしは諸君に超人を教える。
人間は、克服されねばならない何かだ。
君たちは人間を克服するために、
何をしたか。

うおおお! 全然わからんけど、アツいっぽいな!?
ニーチェをしれば、虚無感を克服できそうだ!
とおもって、期待MAXで調べはじめた。

しかし、衝撃の事実をしった。

ニーチェ、発狂して10年間ふとんに入ったまま、死んだらしい。

虚無感やばすぎ


あかんやん!

西洋哲学にたよると、よけいこじらせそうな予感がして、やめた。

そして、最後にてをだしたのが、「東洋哲学」だった。
「東洋哲学」といわれても、ピンとこない人が大半だとおもう。

でもね、めっちゃいいんですよ、東洋哲学。
たとえば、インド哲学。メインテーマは、これだ。

「本当の自分ってなんだろう」

日本の社会で、これ口にだしたら、超バカにされる。
みんな気になるくせに!

でも、自分探しの本場、インドはちがう。
今この瞬間も、「本当の自分」を探してる人が、何億人もいる。

しかも、インド人の論理的思考、世界最強レベル。
数学で「ゼロ」の概念を発明したの、インド人である。

そんなインド人の哲学者たちが、何千年も考えてきた「本当の自分ってなんだろう」の答え、知りたくない?

ありました、「答え」。
そして、その「答え」を知って、
わたくし、虚無感から脱出して、いまこうして本かいてます。

東洋哲学のいいところは、きほんてきに、

「どう生きればいいか」がテーマなこと。そして「答え」があること。

よく哲学は「答えがない」といわれるけど、東洋哲学は、超しっかり「答え」があるのだ! これはありがたい。

そしてなにより、この「顔」をみてほしい。
東洋哲学の代表的な哲学者、ブッダである。
人間、こんなやすらかな顔できるん?
ニーチェの虚無顔とえらい違いや。

東洋哲学は、とにかく楽になるための哲学なのだ。

無職だろうが、離婚してようが、ふとんにいようが、めちゃ
くちゃ楽になれる、ヤバい哲学である。
ちなみに、先にいっておくと、東洋哲学にはひとつ弱点がある。
友達の家に遊びに行ったとき、このブッダのポスターが、でかでかとはられていたら、どう思うだろうか。

最強に怪しい。

友達のことが心配になる。

じっさい、ぼくも実家の本棚に東洋哲学の本をならべまくったら、
親からガチのトーンで心配された。

それもそのはず。

東洋哲学は劇薬である。

効果はすごい。でも取り扱いをまちがえば、めちゃくちゃ危険。

ただ、安心してほしい。勧誘とかしないから。
ぼくは、特定の宗教にはいってないし、 家にブッダのポスターもはってない。

また、間違ったつたえかたにならないよう、宗教学者で、京都大学名誉教授の鎌田東二先生に監修していただいた。鎌田先生は70代だけどバク転できる超スゴい方なので、とにかく安心してほしい。

この本は、「哲学エッセイ」です。
ぼくは学者でも僧侶でもないので、東洋哲学を「ひとりの無職がこう受け取ったんだな」とおもって、気楽に読んでくれたら嬉しいです!

それでは、これから7人の「東洋哲学」の哲学者を紹介します。
ぼくが、7人の哲学をしって、どんなふうに「虚無感」から回復したかも書きます! 
ひまだったら読んでみて!

東洋哲学、この人をぬきに語れない。最強の哲学者から紹介する。
「ブッダ」。
別名、お釈迦(しゃか)さん。みんな名前はきいたことあるよね。
でも、くわしく知ってる人はすくないと思うので、紹介しよう。

まず、ブッダについて、一番大事なことをつたえたい。
ブッダは「人間」である。
インド人である。

絵でも仏像でも、あまりに「神」っぽいので、勘違いされがち。

人間です。インド人です。父ちゃんと母ちゃんからうまれたし、たぶんカレーたべてた。
そんなブッダはいまから2500年くらいむかしの人。でも、現代人のぼくと、同じ悩みももっていた。

「虚無感」である。

ブッダもまた、虚無感になやんでいた人間だったのだ。
でも、ブッダはすごい。
なんと、虚無感を完全に解決したのだ。
えっ? そんなことある? 「虚無感」って完全解決できるやつだったん?
ぼくは、ブッダの哲学をしって、人生イチ衝撃をうけた。
「人生で一番影響うけた人は?」ってきかれたら、「ブッダ」と答える。それでドン引きされそうな時は「明石家さんま」って答えてる。
これから、そんなブッダの、破天荒すぎる人生ストーリーと、虚無感をぶっとばしてしまう衝撃の哲学を紹介していく。

ブッダは、とんでもなく恵まれていた。
仮に、古代インドにマッチングアプリがあったとしよう。
もし、ブッダが登録すれば、あまりに「ハイスペック」すぎて、婚活市場のバランスは完全崩壊し、サービスは終了においこまれるだろう。

まず実家が太い。

実家、王家。職業、王子。年収は、おおすぎて測定不能。頭脳も、のちに人類史にきざまれるレベル。
しかも、たぶんめっちゃイケメンだった。修行中、地元のギャルに突如おかゆをもらったりしたので。

でかい城にすんで、ほしいものは全部手に入る。豪華なご飯を毎日たべて、ハーレムまであった。(実家にハーレムあるのいやすぎる)
家族にもめちゃめちゃ愛されてた。
「王子」って、超やりがいありそうな仕事やん。

しかし!
こんな恵まれた環境なのに、ブッダはバキバキに「虚無感」に苦しんで生きていた。
たぶん、ずっとふとんに入ってたと思う。
王子といいつつ、じっさいは「無職のニート」だったのだ。
王家にうまれて、虚無感でふとんに入っていたブッダ。

庶民のくせに、「自分、めぐまれてるしな…」と虚無感をもつことすら申し訳なくおもってた自分が、最高にバカらしくなる。
どんなに恵まれてても、虚無感はかんじるものらしい。それを、若いときのブッダが証明してくれてて救われる。

無職、哲学的になりがち。ぼうだいに時間があるから。
暇な時って、「なんのために生きてるんだろう?」とか考えこんでしまったりしません?するよね?
ぼくもふとんの中で一日中、「ブラックホール同士が衝突すると何がおきる
!?」みたいな動画をみて、宇宙に思いをはせていた。
ブッダも、だいたいそんな感じだった。

「この人生なんの意味があるんだ?」
「本当の自分ってなんなんだろう?」

しかし、並の無職とは、スケールが違う。

本気で考えすぎて、ある日、家出して、そのまま一生外にいた。「出家」である。
バレるとやばいので、夜にひっそりでていったらしい。
ブッダも、「自分探し」の旅にでたのだ。
ぼくらのより、だいぶガチのやつだけど。
「出家」ってつまり、「ホームレス」になること。
森とかでねる生活。治安悪いし、トラとかいる。

ブッダ、29歳。アラサー。
王子からホームレスに。理由、自分さがし。
大企業からベンチャーに転職する、みたいなレベルじゃねぇ。
しかも、このとき、妻と、うまれたばかりの子供がいた。
出家とは、家族の縁をきることである。
王様やってる父ちゃんも、急に後継者がいなくなってパニックである。

インドってすごい国である。なんと2500年前から、「自分探し」の本場なのだ。
インドじゅうに、人生を修行だけに捧げる「自分探し」のプロが、すでに沢山いた。
当時のインドの「自分探し」業界では、「めっちゃ身体をいためつけたら、本当の自分があらわれる」という風潮があったらしい。
業界の新人・ブッダもまずは、その風潮にのっかることにした。
その修行の内容がすごい。

「するどいトゲでつくったベッドで寝続ける」
「めちゃくちゃ髪の毛むしりとる」
「めちゃくちゃ息とめる」

こんなことを、毎日やりつづける。めっちゃ息止めると、頭に激痛がはしって、身体がもえるように熱くなるらしい。何やってんねん。
思い出してほしい。ちょっと前まで「王子」をやってた人が、自分の髪をむしりたおしてるのだ。
トヨタの社長の御曹司が、急にこんなことはじめたら週刊文春が黙ってないよ。そして、修行中、とにかくメシを食わない。断食である。
いまはやりの、ファッション断食じゃない。この写真のレベルでやったらしい。

ブッダは、こんな苦行を6年間やりつづけた。
いやー無理っす。ぼくなら1時間でやめて家もどるな。
しかし、ブッダ、6年修行しても、いまいちピンとこなかった。
だれよりも本気で「苦行」にとりくんだのに、「本当の自分」がぜんぜんみつからない。
それもそのはず。
当時でも、50年以上、苦行してる人とか、ザラにいる世界だ。
たった6年で「本当の自分」をみつけられるなら、みんなみつけられる。
自分探し業界のセンパイなら、「まだまだ苦行がたりねぇな」とおもって、もっと修行をつづけるはずだ。

しかし、ブッダは、革命的なことを考えついてしまう。
たった6年だけど、めちゃくちゃ本気で苦行してきた。でも、なんか手応えがない。
「これ、もしかして意味ないんじゃね…?」
もっと他に方法あるやろ、とおもったのだ。
しかし、方向転換するにしても、断食しすぎて体力も気力もゼロである。客観的に見て、死にかけの中年男性である。
ここでブッダが力つきていたら、仏教はうまれなかった。
しかし、ブッダは「持っていた」のだ。奇跡的に、人類の歴史の転換点をつくる人物があらわれる。

「あのイケメン死にそうじゃね?」

と心配した近所のギャルが、おかゆをもってきてくれたのだ。
ギャルはすごい。ふつうの人は「断食してる人に、ごはんあげるとか失礼だよね」って遠慮すると思う。ダイエット中の人にケーキあげないのと一緒だ。
ここで、ブッダに究極の二択にせまられた。

 ―おかゆを食うか、食わないか。

思い出してほしい。ブッダは、妻と生まれたての子供を捨てて、苦行にうちこんできた。
ここで、おかゆを、しかもギャルのおかゆなんて食ってしまったら、今までの努力が無意味になるやんか。
元妻からしても「は? なめてんのか?」な事案である。
自分探しプロの同業者からも「あいつ、終わったな」とおもわれること必至。
しかし、ブッダはここで、のちに人類の歴史にのこる、重大な選択をした。

「おれ、おかゆ、食う。」
おかゆを食うことでみえるかもしれない、新しい景色に賭けたのだ。

ズズズッ(食べる音)
あぁ…うまい…(感想)
うまいよね…(ギャルの感想)

ギャルの慈悲がつまったおかゆは、沁みた。
ブッダの体力と気力がモリモリ回復した。過去最高のコンディションである。
そのままの勢いで、食後、おっきい木の下で瞑想したら、]

悟りを開いてしまった。

そんなことある? ちなみにこのギャルは「スジャータ」という。コーンスープとかでおなじみの日本の食品メーカーの名前の由来になっている。

悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。
いったい、どんなものなのか?
その答えは

「無我(むが)」

だった。

自分とか、ない。

なかったんだってさ。

いやいや、ないって? ここにあるやん? どういうこと?

ひとつたとえ話をしよう。ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。
ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。悔しかった。
しかし、翌日気づいた。おれ、そもそもテレビ持ってなかった。
ホラーである。
仕事がきつくて頭がおかしくなってた。

「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。
「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。

「無我」とはどういうことか。いまぼくが、「自分」だとおもってるものは一体なんなのか?
ブッダはこういった。
「自分」とはただの「妄想」。
ほんとうは、この世界は、ぜんぶつながっている。
よく観察すればわかる。
 

ほんまかいな。「妄想」はいいすぎやろ。
ということで、ブッダに挑戦してみよう。
これ(↓)はぼくの「身体」。

めっちゃ「自分」。
しかしである。よくいわれるように、人間のからだの細胞は、つねに入れ替わっている。

一説によると、3ヶ月でだいたい入れ替わってしまう。
これ(↓)は、10年くらい前の写真である。

正面をむいて、真顔の写真を探したのだけど、当時写真をとられるのが嫌いすぎて、ロクな写真がのこっていなかった。
写真アプリのAIは「これ、お前だよ」と判定してくれたし、ぼくも「自分だな」とおもう。
みなさんも、10年前の自分の写真をみて「自分だな」と思ってるだろう。

そりゃそうだ。
しかし、驚くべきことに、10年前の身体と、いまの身体は、物質的に完全別物レベルなのだ。過去の写真をみると、不思議なきぶんになってくる。

そもそもである。身体は、食い物でできている。
昨日、コンビニでかったチキンをたべた。ファミチキである。「ファミチキ」なるウキウキしたなまえに、つい騙されるが、要は「鳥のからだ」である。
ファミチキを食う、ということは、「鳥のからだ」を、吸収してるということだ。
いまのあなたの筋肉は、むかしたべた「鳥のからだ」だ。

「自分」のからだは、食べもの、つまり「自分以外」のものからできているのだ。

もっといえば、
「鳥」も、「鳥」以外のものでできている。虫とか食ってる。
「虫」も、「虫」以外のものでできてる。草とか食ってる。
「草」も、「草」以外のものでできてる。水とか太陽の光とか。

この世界は、全部つながりすぎている。
ちゃんと観察すると、「これが自分」といえるものが何もないことに気づくのだ。
「無我」である。

もう一個、追い打ちをかけるように、残念でグロテスクな世界の真実をつたえたい。
いまこの瞬間、おなじ空間に人間はいるだろうか?
家、職場、電車、なんでもいい。
その空間は、みんなのはいた「息」や、なんなら「屁」が循環している。
考えたくないが、本当は知っているはずだ。
われわれは、お互いの、「息」や、なんなら「屁」を、呼吸のたびに、すいこみ、身体に吸収しあっている。
同じ空間にいるだけで、つねに、みしらぬおっさんとかと、物質を交換しあっているのだ。サッカーのユニフォーム交換のように。そうして出来上がっているのが、いまの身体である。
ごめんな、こんなこといって。
でも、残念なくらい、すべてはつながってる。
あんまり考えたくないレベルで、つながってるのだ。

◆ ◆ ◆

それでも、なかなか「自分」が「ない」とは信じられないだろう。
身体はそうかもしれんけど、心はどうやねん。
いまこの本を読んでる間、いろんな思考がわきあがってきているとおもう。
心のなかで、考えること。そんな「思考」のことを、ふつう「自分」だとおもって生きている。そりゃそうだ。
しかし、である。「思考」をよ─────く観察すると、ちがうことがみえてくる。
この写真をみてほしい。

「カレー食いたい」

「カレー食いたい」
と、おもわなかっただろうか? おもったことにしてよ。
しかし、である。よ─────く観察してほしい。
「カレー食いたい」という「思考」は、どこからともなく、勝手に「わきあがってきた」のでは?

よっしゃ! いまから「カレー食いたい」 って思考するぞ!
       ↓
   「カレー食いたい」

こんなヤバいひと、いないでしょ。いたらなんかごめん。
思考が「わきあがってくる」瞬間をよく観察すると、思考のことを「自分」だとだんだんおもえなくなってくる。というか、なんかこわくなってくる。
「カレー食いたい」とおもったのは誰なんだ。実はホラーである。
ぼくがカレーの画像をみせなければ、「カレー食いたい」という思考はわきあがってこなかった。
ぼくが「カレーの画像をみせよう」とおもったのも、その思いがわきあがってきたからそうしただけだ。なぜわきあがってきたかは、わからない。
今日の天気も関係してるかも。雲と太陽の影響。もはや宇宙規模の話になる。
宇宙規模の関係性のなかで、「思考」がわきあがってはきえていく。

「思考」さえ、自然現象のようなものである。
「思考」だけではなく「感情」もおなじである。
「よっしゃ! いまから嬉しい気持ちになるぞ!」
「よっしゃ! いまから怒った気持ちになるぞ!」
「よっしゃ! いまから悲しい気持ちになるぞ!」
こんなふうに感情をつくりだし続けている人がいたら、こわすぎる。
感情も「わきあがってきている」のだ。

身体も心も、宇宙規模のつながりのなかで、たまたまいまこうなっているだけ。
息を吐くたびに、身体の一部をおっさんと交換してる。
飯をたべるたびに、地球と身体がいれかわってる。
心も、天気とか、宇宙の影響をうけてつねに変化してる。
ブッダは、瞑想して、だれよりも「観察」した。その上で、

「これが自分だ」といえるようなものは、ひとつもない。

と結論づけたのだ。
なにもかもが、無限にいれかわり続けている。
「自分」も例外ではない。これが、「無我」なのだ。

そして、ブッダはこの「無我」の哲学から、ぼくらの人生が苦しい原因を、完全解明してしまったのだ。
人生の苦しみの、根本的な原因。知りたくない?
苦しみの原因、それは、

「自分」

なのだ(!)
すべてが変わっていくこの世界で、変わらない「自分」をつくろうとする。
そんなことしたら、苦しいにきまってるやん。

ひとつたとえ話。小学生の頃、家の近くに、小さな川があり、よく遊んでた。
あるとき、世にもおそろしい悪事をひらめいた。
川には大きな石がゴロゴロしている。
この石をつかえば、

「川、とめられるんじゃね?」

とおもった。すぐに犯行を開始した。
日が沈むまで、ひとりで大量の石を移動させ、堤防が完成した。

「明日には川はとまり、犯罪者としてニュースになるだろう」と覚悟して、眠れない夜をすごした。
翌日、川をみにいったところ、石の堤防はぶざまに決壊していた。

川はギュルンギュルン流れている。
「自然、やべぇ〜」と思い知った経験だった。
たぶん「自分」とはこの石の堤防みたいなものだ。変化す
る川を、とめようとすると、めっちゃ苦しい。
すべてが変わっていくこの世界で、変わらない「自分」をつくろうとする。そんなことしたら、苦しいにきまってる。

具体的にかんがえてみる。
私事ですが、30代になって、白髪がふえてきました。
これまでめだつ白髪は、「オラァ」と引きちぎっていたのだが、最近引きちぎる回数がふえすぎて、いたくて涙がでてくる。苦しい。
20代のまま、変化をとめて、「自分」を若いままにとどめようとする。
川をとめようとするのと同じだ。めっちゃ苦しい。
「老い」っていやだよね。でも、

「老い」という、「苦」をさけるために、
「若い」という、「自分」をつくっている。

その「自分」こそが「苦」の原因だったのだ。
老いはとめられない。楽になるなら、受けいれるしかないのである。いややな〜〜〜〜〜。
でもさ、いくら「苦」の原因だからって、「自分」をぜんぶすてたら、どうなっちゃうの?
ヤバそうじゃない?

ブッダのことばがのこっている。

「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。
これこそ最上の安楽である。

ウダーナヴァルガ30章 一九

最上の安楽。

「一番、きもちいい」

ということだ。
「自分」ぜんすてたら、「きもちいい」らしい。ほんまか!?

ここで思い出してほしい。ブッダは元・王子である。
「美味しい」「楽しい」「エロい」など、すべての「きもちいい」を経験してきた人である。

そんなブッダが、「一番、きもちいい」といっている事実は、重い。
ガチすぎてこわい。
この「一番、きもちいい」の境地を、ニルヴァーナ(涅槃/ねはん)とよんだのだ。

ブッダは人間である。ふつうに死んだ。死因もちゃんと、記録にのこっている。
ある日、
「ブッダさん、マジリスペクトっす!」
「おれ、料理したんで食ってください!」
て具合の、グッドバイブスな青年から、キノコ料理をもらって食べたら、食中毒になって死んでしまった。
80歳のときである。インドあついからな。食べ物いたむのはしゃーな
い。
ブッダが死んで、みんな悲しんだ。
そして、「ブッダの教えを、後の時代につたえていくで!」と、弟子たちが、ブッダの教えを、文章で記録して整理することにした。
これが「お経」である。
彼らのお陰で、ブッダの教えは「仏教」となって、ぼくたちにもつたわったのだ。

でも、問題にぶちあたった。
ブッダの「無我」、むつかしすぎたのだ。
「自分がない」という、わかるようなわかんないような感じ…。
けっきょく、ブッダの教えの解釈をめぐって、弟子のグループが分裂しまくって、何百年も大論争になってしまったのだ。論争をへて、ブッダのころはけっこうシンプルな教えだったのに、学者しか理解できないような複雑なものになってしまった。
もう民衆の心は、仏教から離れはじめていた。仏教存続の危機である。
しかし! 700年の時をへて、とんでもない天才が現れて、状況は一変した。
かれは、インドの全ての学者を論破してしまったのだ。
仏教はふたたびシンプルで、みんなのための教え、「大乗仏教」となって、大復活をとげたのだ。
その天才のなまえは「龍樹(りゅうじゅ)」という。
次の章では、その龍樹について紹介していく。かれの哲学をしることで、「自分が、ない」ということを、もっとクリアに知ることができる。


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