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わたしの夜行

森見登美彦の『夜行』についての妄想です。

⚠️ネタバレあり
⚠️未読の方は読まないでください

鞍馬の火祭り


【はじめに】

2020年3月、たまたま読んだ本にいたく感化されて興奮した阿呆が暴挙に出た。

初めて主催した読書会にて、哲学とのファーストコンタクトから2週間、着想5日間の浅はかさで『夜行』を「実存主義」とした妄想を述べ、最終的には「〇〇〇〇派」なんてヘンテコな言葉まで飛び出した。

阿呆は大変楽しかった。心優しき仲間たちは最後まで辛抱強く聞いてくれたが、言葉と思考がまとまらず…本当に申し訳なかった。

同年5月、阿呆はせめて言葉を整理して伝えたかったことを文章にしようと思いたった。
全く懲りていない。

【参考文献あるいは妄想の被害者たち】
永野潤著『サルトルの知恵』青春出版社
(たまたま読んだ本はこちら)

海老坂武著『サルトル』岩波新書

高橋英夫著『西行』岩波新書

※当時、サルトル自身の著作は未読でした。
※すいません。
※現在は『存在と無』に苦戦中です。

※2020年5月に書いた妄想を2021年にフセッターに投稿したものをさらに改訂しました。



⚠️ネタバレあり
⚠️1万字超えています



ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)

パリ生まれの哲学者。政治、文学、演劇、哲学・思想界で活躍して「20 世紀を象徴する知識人」と呼ばれる。
第二次世界大戦後の来日講演には大勢の若者が押し寄せてサルトルブームが到来した。
著作の『嘔吐』と『実存主義とは何か』を、わざわざ表紙が見えるように持ち歩くことが当時の大学生のステータスだったそうな。

人間を「実存が本質に先立つ」存在と定義した。

実存:今ここにあること
本質:役割、概念   

モノは本質(役割)が実存に先立つ。書くという役割をもってペンは作られるし、手紙を開封するためにペーパーナイフは作られる。
しかし人間の本質(役割)は決められておらず、まずただ生まれただけの存在(実存)なのである。

つまり人間に役割を与える神様もいないよってことでサルトルは無神論派実存主義。

何者でもない(実存)人間は自由に行動を選択して何者か(本質)になっていく。

 

サルトル作品①『存在と無』1943 年

700 ページ超えの難解な哲学書。
従来の哲学書と違って日常生活を題材にした具体例がいっぱい載っていて、その辺りは読みやすいらしい。

私が鍵穴から森見さんを覗き見している。私は一方的に森見さんに対して関係している存在であり、自分しかいない空間で私は自由でHAPPY。
しかし、そこを他人に見られたとしたら、私は他人に定義され(他有化)不審者となる。

私は関係する存在(対自存在)から、関係される存在(対他存在)へと転落してしまう。

世界に他人が存在する限りこの危機は逃れられない。「他人のまなざし」は「自由の受難」であり「人間の条件」なのである。危機から逃れるには、なに見てんだこんにゃろと見返すしかない。

対人関係は見るか見られるかの関係であり、「まなざしの決闘(相克)」なのだ。
人間は自分と他人のまなざしを自覚し、世界と他人の中で自分を生成しなくてはいけない。

対自存在(ヒト)は世界と自分に対して関係する中で、常に自分自身から脱出し新しい自分を作りだしている。ヒトは主体的に自らを生きる投企なのだ。投企とは、自分の企てる未来に向けて自分を投げ入れ、自分を救っていくことである。

実存主義の「自由」とは自分本意や好き勝手をすることではない。未来に「可能性」を持つことであり、対自存在(ヒト)の根本的な在り方だ。

人間(ヒト)は自由な存在であると同時に、
誰しも生きる時代の状況に拘束されている。

即自存在(モノ)は自ら関係することがない。

崖にあるという状況の中で、岩(モノ)が落ちるか否かは物理の法則だろう。しかし、人間(ヒト)は落ちないように企てることも出来るし、言ってしまえば落ちることも出来る。

可能性を持つヒトはモノとは違い自由な存在だ。

如何なる状況の中でも、未来を選択することができる人間は自由なのだ。



【第一夜 尾道】他人の存在


中井の妻が尾道へ家出したのも、ホテルマンの妻が二階へ籠もったのも、夫のまなざしを避けるためである。彼女たちは「まなざしの決闘」という「人間の条件」から逃げたために消えた。

「先輩は解決できることにしか
興味ないから」

他人に関係されて自分以外の人間に定義される。言い換えれば、他人のまなざしに支配される「他有化」は、自分と他人が存在する世界に生きるかぎり解決することはない。中井はその受難に耐えられない人間だと長谷川さんは言ったのだ。

中井と妻の「まなざしの決闘」は破綻した。互いに自分のまなざしを押し付けて相手のまなざしを受け入れなかった。尾道に居たのは妻ではない女性、ホテルマンの妻だ。

覗き穴から他人を見るのは一方的なまなざしであり、ホテルの客室内は中井のまなざしが定義する自由な世界でホテルマンは怪物だった。だが、電話によって誘い出された寿司屋でホテルマンと正面から睨み合うことになる。中井はホテルマンと「まなざしの決闘」を始めたのである。

「まなざしの決闘」には、一つだけ勝利する方法がある。相手である他人を殺すのだ。「他人のまなざし」そのものを消し去り、死体に向かって自分のまなざしを一方的に向ける。

そうすると、自分の定義が世界を支配することになる。これは決して人間の在り方ではない。
「人間の条件」からの逸脱だ。

中井はホテルマンを殺した。中井のまなざし、定義は勝利した。中井の世界に妻が帰ってきた。しかしそれは本当に妻自身だろうか。

この世界に中井を誘い出した鬼かもしれない。

中井の世界は元の「実存の世界」から乖離した世界の果てかもしれない。自分の定義のみの世界は安心できるだろう。自分が定義した他人は安心できる。危機をもたらす他人は消したら良い。

「他人のまなざし」を受け入れられない人々、「他人の存在」つまりは「対他存在としての自分」を認めない自己欺瞞に陥った人々の物語。
それが第一夜ではないかと思う。

尾道の枝分かれして入り組んだ坂道、不思議な町は人生の岐路を思わせる。



サルトル作品②『出口なし』1944 年

サルトルの書いた戯曲の中での代表作。
ドイツ占領下のパリで上演された。

地獄へ 3 人の死者が連れられてくる。そこは古めかしいホテルのような密室で、部屋には窓も鏡もない。それぞれ生前の行いにやましさを抱えた死者たちは、いつどんな罰がくだされるのかびくびくしていたが、何かが起こる気配は全くない。

次第に 3 人の関係は複雑化していき、互いに監視し、腹の内を推測し合う。やがて彼らは他人のまなざしは自分の存在を定義し、支配するものであると気づく。一番の責め苦とは他人のまなざしなのである。

舞台の最後に死者が叫ぶ。

「地獄とは他人のことだ!!」




【第二夜 奥飛騨】モノでない人間

武田は、仲間との旅は『密室』に閉じこめられるようなものだと言った。他人のまなざしを近く感じることで、互いへの意識も強まるだろう。彼が旅仲間をどのように意識=定義していたかを考えると、どうにも人間をモノ扱いしているように思える。

ミシマさんは他人の未来を断言する。その人間の未来にある可能性を認めていない。

台風が通りすぎるのを待つだけの増田さんは、自分の行動が状況を左右するとは思っていない。
他人を、自分を、人間をモノ扱いしている。

人間はモノでない。他人が存在すれば、旅の行程なんていくらでも変わる。
未来なんてわかるものではない。

美弥さんと瑠璃ちゃんの姉妹は、他人の可能性を認めていたように思う。不確定な未来への不安を感じていたが、宿では様子が変わっていた。

剥製(モノ)を見つめる彼女たちは人間だったのだろうか。

旅の間に、武田は気づき始める。

ふと僕は思ったんです。
ミシマさんが未来を予言したのではなく、 
ミシマさんの予言を成就すべく
夫は死んだのではないか。

ミシマさんの夫は自分で未来を選択したのではないか。状況を左右する可能性を持つ人間はモノではないのだ。

人間を表面的に、即自(モノ)的に認識してモノ扱いできたら楽だろう。しかし、より深く相手を知ればモノ扱いなんてできない。自分でさえコントロールできない。

人間はモノでないと思いかけた。だが、武田は自分の可能性にも他人の可能性にも耐えられなかった。人間を即自(モノ)的に捉えて「可能性」から逃避するという自己欺瞞に陥った。

他人は全て消してしまった。

身体を寄せ合う美弥さんは武田がコントロールできる美弥さんなのだろう。それは他人ではなく、人間ではないのだ。
もしかすると鬼かもしれない。


サルトル作品③『実存主義とは何か』

1945 年 10 月、パリで行われた講演の記録。
「実存主義はヒューマニズム」と題されたこの講演でサルトルは一躍時の人となった。

「実存が本質に先立つ」ということは、人間にとって世界や自分にそもそも意味はない。人間は根源的に「自由」なのだ。誰もが何の手掛かりもない大きな不安の中で自分自身のあらゆる行動の意味を決めなければいけない。
ひとりひとりが孤独に人生を作っていかなくてはならない。

人間は自由の刑に処せられている。

ひとりひとりが道徳を作っていく。自分の行動を選ぶことは単に個人の問題ではなく、人類全体の問題だと主張した。

サルトル自身が否定していた時代もあったが、この講演で「実存主義はヒューマニズムである」と明言した。



【第三夜 津軽】自身の投企

藤村さんは絵を描く人、芸術家である。
人間が未来へと自分を投企する存在だとして、その中で自分の世界を保存できる能力を持つのが芸術家だと思う。

過去に自分の世界を切り取った作品は、その作者にとってタイムマシンなのではないかと思っている。

この妄言をもとに第三夜を語る。

児島君の「終点まで行くことに意義がある」という発言はハイデガーの実存哲学(サルトルと同じく無神論派実存主義に分類される。死を唯一確実な未来の可能性として受け入れることが人間の在り方だと説いた)を思わせる。しかし、人間が目指すのは終点(死)だろうか。

三角屋根の家、児島君、佳奈ちゃん、これらはみな、藤村さんにとっての「過去」ではないかと思う。過去の存在の児島君は、同じく過去の存在である三角屋根の家へ藤村さんと夫を案内した。
半狂乱の音は過去からの呼び声。

夫だけが「未来」だ。藤村さんはドアノブを回すか否かも選択できない。夫はその場を離れるという選択ができる。夫は藤村さんが未来を委ねた存在でもあるのだ。

長谷川さんは失踪することもあり得る。未来にあらゆる可能性をもつ人間だと藤村さんは思う。他人に未来を委ねる自分とは違うと。

「あとで追いつきますから」

過去が追ってくる。

児島君と佳奈ちゃんの姿は夫には見えない。過去はただ自分だけのものだ。藤村さんにとって、佳奈ちゃんは子ども時代によくあらわれる空想上の友達(イマジナリーフレンド)であり、未来へ向かうために過去へ置いてきたもの。児島君も、何かしらあり未来(夫)を選ぶために過去へ置いてきたのではないだろうか。

夜行列車は先へ進むものであり、未来へ進むものだ。夜行列車に乗ろうと言った時の藤村さんは未来へ進もうとしていた。

人間は現在に留まれず、過去にかえることもできない。人間は未来へ進むことしか出来ない。

藤村さんは未来を夫に委ねていた。彼女は主体的に未来を選んでいくという、人間の在り方を既に放棄していた。さらに佳奈ちゃんを追っていく。過去へ向かっていく。

夫を切り離して辿り着いた家に居たのは女の子ではなくて女性だった。過去が追いついて人間の在り方から逸脱した。

藤村さんは「未来」を選ばない。「過去」に追いつかれて、「未来への不安」から逃げるという自己欺瞞に陥った。
人間としての破綻、狂乱だ。

銅版画の前で児島君は何を言い淀んだのだろう。夜の世界はどこにもないか、どこにでもあるか。佳奈ちゃんは過去から来た藤村さん本人であり鬼だったのかもしれない。



サルトル作品④『聖ジュネ』1952 年

ジャン・ジュネ(乞食、泥棒、男娼などをしつつ、放浪と投獄の生活を送ったフランス人作家)の評論であり戦後サルトルの代表作。

サルトルは実存的精神分析の手法でジュネを分析して丸裸にしちゃって、この評論の影響でジュネはしばらく作品が書けなくなった。かわいそう。

私生児で孤児の少年ジュネは社会の中にあって「何者でもなかった」が、 10 歳の時に盗みを見つけられ「お前は泥棒だ!」と言われる。まだ泥棒という言葉の意味も知らない子どもが、他人から泥棒だと、社会の中での悪だと定義された。

この到底少年が生きられないような状況の中で生きるために(他有化をのりこえまなざしを逆転させるために)ジュネは他人から定義された自分を受け入れることを選択した。

人間には「何も選択しない」
という道はない。

ジュネの行動、「悪」の選択は「善」を全うとする社会に対する批判だとサルトルは分析した。差別の始まりはまなざしなのだ。

  

【第四夜 天竜峡】偶然の世界

田辺は元劇団員だ。彼が生きていた芝居という固定された世界での登場人物たちは役割、台詞、行動の全てが決められている必然の存在だ。全てが偶然の産物でしかない現実世界には存在しない。

女子高生は商店がへんなものに見えてくると言う。坊さんは車窓の景色に言葉が追いつかなくなると胡散臭い話をする。

これらは同じことを語っているのではないだろうか。へんなものに見えてくるのは、廃業寸前で「商店」という役割を逸脱してただ存在するものが見えるからであり、言葉が追いつかなくなるのは、偶然に存在するものに概念(言葉)が間に合わなくなるからだ。

どちらも「役割・概念」である「本質」はただの見せかけであり、ただ意味なく存在する「実存」が世界の全てを構成していると伝えている。

言葉(概念)に頼らずに他人を見ることができれば、その人間の実存が見えるはずだ。それはその人間の可能性、自由を認めることでもある。

出会ったときの岸田は無名だった。長谷川さん失踪後、木屋町のバーで岸田と再会した田辺は、自ら選択した銅版画家という未来に向かって進む姿に尊敬を抱いた。

人間が何者かであろうと葛藤する。
その姿が青春ではないかと思う。

岸田は他人の可能性を認めることができたのだろう。そんな彼を慕う者たち、岸田サロンは自分自身への葛藤を抱いた人間の集まりだった。

川の対岸に一本の桜の木。同じ場所にぴたりととどまっているような満開の桜に溜息をつく田辺は、自分とは違うと思ったのだろう。

田辺は芝居のような固定された、完璧な世界への憧れが強いように思える。

「春風の花を散らすと見る夢は――」

偽坊主の佐伯も不眠症だった。彼もまた何かしらの葛藤の中で苦しんでいたのだろう。

生きづらい状況の中で、それでも生きるためにへらへらと陽気な「佐伯」を演じた。
自分は何ものにも誑かされていないと自慢する佐伯は、あくまで自分自身の選択で偽坊主になったのだ。

佐伯は言う。芸術家は真実の世界を覗かせるのではなく「魔境」を見せるのだと。芸術家は人間であり作品は人間が創りだした「必然」だ。それを「偶然」に見せかけるのが「魔境」なのだと。

西行法師の歌も岸田の銅版画も魔境なのだろうか。岸田は仲間の旅の風景に誰でもない女を描くことで必然性を破壊した。作品の想を練っていたのは暗室だ。岸田は世界と自分の境目を無くそうと試みていた。
そんなの人間じゃない。

人間が世界に、例えば桜について意識するということは、その人間は桜ではない。ということは、人間と、人間でないものの間には裂け目がある。「無」が「穴」がある。

また、人間は自分について意識する。
人間は常に未来に向かって自分を投げかけている。自分でない者へと変身している。

ということは、人間は世界に対してと同じく自分の内にも裂け目を「穴」をもたらす存在であるのだ。

人間は常に「穴」の淵に、世界の果てで孤独に存在しているのかもしれない。田辺はこの孤独を岸田と共有していると思っていた。だから佐伯に嫉妬したのではないだろうか。

佐伯も世界の果てで孤独だったのに。

岸田は歩みを止めた。田辺の愛する固定された、完璧で永遠な世界がそこにあった。
女は鬼だった。鬼たちは「穴」からやって来たように思う。世界の果て、裂け目の「穴」だ。

世界は偶然の産物で人間は何者でもなく意味も無く存在するなんて、不条理すぎる。怖すぎる。

どれだけ自分を必然の完璧なものにしたくても、偶然の世界の中で自分が完璧に定義され続けていくなんて無理だ。「穴」の淵、世界の果てで止まってしまえば良い。

人間が生きる偶然の世界には存在しない、必然の世界、必然の自分を求めるという自己欺瞞に陥ったのが田辺なのだと思う。

「魔境」は「穴」の景色、世界の果ての風景なのかもしれない。

 
 

サルトル作品⑤『嘔吐』1938 年

元は『人間存在の偶然性に関する弁駁書』というタイトルで哲学的エッセイになるはずだったけれど、恋人(ボーヴォワール)に「推理小説のようなサスペンス仕立てにしたら?」と言われて書き直した。なんでや。ヒューマニズムに対して批判的だったころの作品。

ニートの主人公ロカンタンはあらゆる存在に対して、その存在そのものへの恐怖、「吐気」と名づけた奇妙な感覚に襲われるようになる。この「吐気」は実存の不安、生きることの不安だった。
あらゆるものは偶然の産物であり、世界は必然的なものではないと気づいたのだ。

この「吐気」の気づきを否定したいロカンタンは元恋人のアニーを訪ねる。役者であり、必然的な存在であること、現実の世界においても完璧な瞬間を求めて生きていたアニーならば、「世界は偶然の産物」なんて考えを否定してくれると思った。

しかし、金持ちの愛人に成り下がった彼女は「人生には完璧な瞬間なんてない」と言う。変わり果てたアニーとの再会で、ロカンタンは人間に生きる意味はないと確信する。

人間は偶然のもの、無意味で不条理なもの。
だから人間は自由だ。
生きる意味がない人間は自由なんだ。

この自由はいくぶん死に似ている。

街を去ることにしたロカンタンは、別れの挨拶に訪れたカフェで餞別の音楽をかけてもらう。この時、彼は気づきを得た。

音譜は決まっている。音楽を聞いている間は「吐気」がおさまる。必然的な音楽によって、偶然の不安が影を潜めるのだ。

自分にもできないだろうか。
この世界「実存の世界」を去ることはできない。必然の存在にはなれないが、それをつくることは出来るだろう。

『嘔吐』はロカンタンが小説家を志すところで終わるが、小説自体は筆者不明の日記として書かれている。

彼のその後は知れない。

何者でもない人間が、自分自身の在り方を探すという生き方を選んだよって物語なのだ。




【最終夜 鞍馬】自由の証明

鞍馬で語られたのはそれぞれ平凡な旅の思い出だった。誰もが無事に帰ってきた。

しかし、別の世界線では帰ってこられなかったひともいた。

人間を即時(モノ)的に捉えて《可能性》から逃げだした第二夜の武田とは違い、大橋君は世界には数多の可能性があると認識している。

また、先輩を演じていたと考えているところからは、第三夜の藤村さんと違って、人間は自分で《未来》を作ることができる存在だと理解しているように思われる。

再訪した柳画廊で展示されていたのは、白と黒が反転した岸田画伯の銅版画「曙光―鞍馬」だった。柳さんは大橋君を知らないと言うが、さらに衝撃だったのは岸田画伯が存命であったこと、その細君が長谷川さんだったことだ。

「夜行」では死に、「曙光」では生きていた。この違いは何なのだろう。

十三年前、母の死から立ち直りかけている時に訪れた尾道で、岸田画伯と長谷川さんは出会っていた。大きな長窓を背景にした自画像の前で、ふたりは共に底知れない空虚に立った。互いに世界の果てに立っていたのかもしれない。

海沿いの料亭で語らい尾道駅前で先輩と別れた岸田は宿まで坂の町を上っていく。夜空(偶然の世界)へ近づいていく。

坂道で出会った怪しい人影を岸田は見返す。同じく尾道を訪れた第一夜の中井とは違い、彼は殺さずに《まなざし》の決闘をやりとげたのだ。

振り返ってみたのは町の灯。列車の音も響いている。どちらも人間が作りだした必然のものだ。永遠の夜が世界の本当の姿ではないかと岸田は感じた。この時、「夜行」という言葉が彼に浮かんだのである。

岸田は第四夜の田辺と同じように、偶然の世界、実存の不安の中で《必然の存在》を求めたのではないだろうか。

「これはゴーストの絵だよ、キシダさん」

「呪われた絵」の物語が横恋慕した令嬢を殺害した後に無意識に描いてしまった銅版画家の貴族の物語だとしたら。

令嬢の冷えた《まなざし》を受け入れられなかった貴族は、彼女が他の人間を選ぶという《可能性》を認めないばかりか、殺害することで《未来》そのものを消した。
さらには父親に依頼された絵に描くことで《必然の存在》にまで陥れたのだ。

第一夜から第四夜までに語られた自己欺瞞のすべてが合わさった物語のように思われる。

不吉な夢から目覚めたとき、岸田の胸は痛いほど鳴っていた。ただ生きていた。

彼は朝の空気の中、美術館で出会った子と再会する。曙光に照らされる女の子の面影に幻の女性は溶け去った。

本当の世界が何もない無意味なものだとしても、世界の中に自分は存在する。そして彼女も存在する。

「ただ一度きりの朝」は自分が選択する一瞬先の未来だと思う。その未来を繋げていく。
それが「曙光」ではないだろうか。

岸田にとって「曙光」の創造は何者でもない自分と世界とを繋ぐ手段だ。銅板画家として「在る」ために必然の世界を創造し続けた。それは生きるためであったのかもしれない。

大橋君は硝子戸に映った自分たちの姿が車窓のようだと思う。夜行列車は「夜」の中を「朝」へ向かって走っていく。

たとえ窓の外には
暗い夜の世界が広がっていても、
車内には旅の仲間がいて、
温かい光がある。

彼らの世界と大橋くんの世界は異なるもので、互いに認識できない。人間はみんなそれぞれの世界で孤独に生きている。

それでも、人間は世界の中に他人が存在することを認めなければいけない。

十年ぶりの鞍馬へ仲間を呼び集めたのは大橋君だ。なぜひとりで訪れなかったのか。不安だったからだ。火祭りを見物に来たのに、なぜ仲間たちはみんな宿から出ようとしなかったのか。仲間たちも不安だったんだ。

なぜ不安なのか。未来がわからないからだ。
不安だということは可能性があるということ、自由だということだ。

人間は偶然の世界で何者でもない自分を未来へ向かって投げかけていく。モノでない人間は他人と世界の中で自分で自分を作っていく。

ただ一度きりの朝――。

曙光に照らされた大橋君は彼の世界の中で生きる。仲間と生きるんだ。

世界の意味、自分の意味、そんなものはないとしても。

彼自身の選んだ一瞬先の未来を繋げていくかぎり、大橋君の夜は明け続けるのだと思う。

 


【感謝の言葉】

阿呆が好き勝手した膨大な文章を読んでいただきありがとうございます。 10000 字以内に改訂しようとしましたが無理でした。

サルトルの思想と『夜行』を勝手に繋げて大興奮した5日間の妄想を記述するために、その間に知ったこと以外は調べずに書いた文章が元になっています。知識の不足や誤解が満載です。哲学知識についてはあまり参考にしないでください。

2022年7月の現在、サルトルは『嘔吐』と『実存主義とは何か』を(理解はともかく)楽しく読んだ後に全3巻の『存在と無』を半年くらい読み続けていて心が折れそうになったので大事に保管していた映画『ペンギン・ハイウェイ』のブックカバーを開封しましたかわいい。まだ2冊ある…。

多彩で自由な読み方ができるのが森見登美彦の魅力ですが、初期作品を思い返してみると

『太陽の塔』→ 自分探しはできない

『四畳半神話大系』→ 自分で未来を選ぶ

『夜は短し歩けよ乙女』→ 他人と世界の中での自分

と、若者が自分の在り方を探す物語であるように思います。実存主義!

しかし「無神論派実存主義」とは少し違うような…森見さんは現実主義者ですが人間にはどうにもできない神秘があったら良いなって思われているようですし…こう…年末になるとクリスマスを祝って除夜の鐘をついて初詣に赴くという、わずか1週間の間に3つの宗教を梯子することになんの違和感も抱かないような、なんとなくの有神論…なんとなくの…。

いっぱい考えて「なむなむ派」というのが自分のなかで一番しっくりきてしまいました。

森見作品はなむなむ派実存主義!!

いっち番怖かったのにこんなにハマる日が来ようとは!人生なにがあるかわかりません。

私たちは誰もが「世界の果て」にいるのかもしれないと考えると、やっぱり怖いのですが、ここに私が存在することは希望でもあると思えるようになりました。

自身の選択で世界の果てを突破し、自分を救い続ける旅。それが人生なのでしょう。

とんだ妄想を長々と失礼しました。
皆さまの旅の無事をお祈りいたします。

尾道にて。
この装丁、旅先の風景に馴染んですごい。


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