図書館と絵本、頭の中はトイレでいっぱいの日々:『あんぱんジャムパンクリームパン』
住む家や行き場のない人たちにとって、書店や図書館は、入場料も身分証明書もなしに入ることができて、好きなだけ時間を過ごせる場所だ。物質的な「必要」を満たすだけではない役割が、書店や図書館にはある。(牟田都子による「あとがき1」より)
コロナ禍の様々な自粛や休業の中で、特に痛手だったのが図書館の休館だった。不特定多数の人が出入りする場所でいろんな人が本を手にとっては戻す。誰でも使える検索システムだってある。そういう場所だから、休館するのも仕方ない。でも、これが地味に私の心をむしばんだ。
ぎっしりとつまった書棚を見ていると、物語と言葉に圧倒される。そこにいるだけで、ざわついた気持ちが落ち着いてくる。頭の中が視界いっぱいに広がる言葉の処理に忙しくて、少しの間、憂いを忘れることができる。そんな感じだ。書店じゃないから、本を買うお金がなくてもうしろめたくない。それが図書館。ありがたすぎる。
妊娠して、いろいろあって会社を辞めたとき、孤独と不安と絶望に押しつぶされないように、毎日のように図書館に通っていた。棚を端から端まで眺めて、文字をひたすらに追っている間だけは、とめどなくこみあげる悔しさと悲しみをせき止めることができた。たまにある休館日は、本当に心細くてどうしたらいいかわからなかった。あの頃、もし私のそばに図書館がなかったら、今ごろ私はどうなっていたのだろう。ギリギリの状態でも心を保つことができていたのは、図書館が受け入れてくれたから。そう言い切れるくらい、図書館に感謝している。今だって、子供を持て余したら図書館、時間があったらとりあえず図書館、休みの日に天気が良かったら図書館、ってな感じだ。
その図書館が休館すると知って、かつての私のように図書館を糧にしている知らない誰かのことを思った。大丈夫だろうか。どうか、元気でもそうでなくても、ギリギリのところにいても、どうかまた図書館に通えていたらいい。そう思う。
近所の本屋は休業せずに短縮営業をしていた。チェーンの路面店であるその店の営業は、本部の判断なのか商店街的なコミュニティの判断なのか店舗独自の判断なのか分からなかったが、本屋に働いていた頃のことを思い出して、改めて大変な仕事だ、とその店の前を通る度に「がんばれ」と念を送った。外から見てもわかるくらい混んでいることが多かったけれど、空いているときはなぜか絵本ばかり買ってしまった。コロナだとか経済だとか仕事だとか生活だとか、そんなこととは無縁の世界の物語を読むことで、気分をごまかそうとしていた。少なくとも、絵本を読んでいる間だけは「コロナ以前」の世界に心が戻れていたような気がする。
テレビのニュースはほとんど見なかった。でも、映画やドラマを見ていても、時代劇や派手なアクション映画やパニック映画などを見ていると、「みんなトイレは大丈夫?」と無意識に心配していた。トイレットペーパーの品薄は思いのほかストレスになっていたのだろう。騒動が落ち着くまで、どんなフィクションを見ていても、トイレやトイレットペーパーのことが気になって仕方なかった。なんて楽しくない見方だろう。数ヶ月前の自分に同情してしまう。
この本を読んで、この春の心のざわつきを久しぶりに思い出した。場所も仕事もライフスタイルも違う3人の日記を読んでいると、「そういえば私はその頃…」と、つい自分も勝手に仲間入りしてしまいたくなる。強さも弱さも生活も感情も、一括りにできるものなんてない。あの頃の日々も思いも人ぞれぞれだ。大きな声では言えないことも、この本を読みながらだったら言えそうな気がする。なんか、静かに「うんうん」と聞いてくれそうなそんな気がするから。
一番響いた部分を冒頭に引用した。でも、「ごはん」と聞くと叫び出したくなる話、ここも大好きだ。