歴史を学ぶから歴史に学ぶへ
◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。6年生を担任すると歴史を教えるのですが、これがなかなか奥深い。歴史的事象の移り変わり、日本の興り、文化の形成、今の日本があるのはどのような歴史的背景からなのか…きりがありません。だからこそ面白いのだと思うのですが、子どもたちの方が詳しくなっていったり、思いもよらない視点から考えてみたり、学びの過程のうちに「歴史を学ぶ」ことから「歴史に学ぶ」へのシフトチェンジが自然となされるような、しかし、指導の側はその意識をもつべきなのだなと今更ながら思うようになってきました。
1.小泉信三の説く「フェアプレーの精神」
歴史上には、実に多数の多様な人々がいる。その全てを知ることは不可能であるし、その必要もないが、その時々で知り得た人物は心に留めておくのがよいだろう。私にとって小泉信三という人物がそうだ。皇太子の教育責任者だった人である。半藤一利さんの『語り継ぐこの国のかたち』で印象深い一節がある。
よく剣道では、ガッツポーズなどすると一本取り消しされると聞いたことがある。相撲も勝敗が決した後の後腐れのなさが見ていて潔く好きだ。一方で、サッカーは得点した時のパフォーマンスがもの凄い。素直に喜ぶ、仲間と称え合うことはよいとは言え、相手を貶めるようなことはしない人間性も涵養できるといい。これがスポーツの場に限らず、政治の世界でも何でも、立場の違う相手を慮ることの大切さが欠乏しているのではないかと指摘しているのである。SNSでの炎上が最たる例だろうか。なぜ違う立場の者をかようにも攻撃せずにいられないのか。反知性主義がのぞかせる一幕に辟易しつつも、こうしたことも小学校教育から育んでいく重要な要素であるのだと考える。
2.「晴天の友」ばかりに陥らないように
もう一つ、小泉信三の説話関係で挙げておきたい。「晴天の友」という言葉がある。三木武夫元首相の使われた言葉に「雨天の友」という言葉があるが対の意味である。恐らく小泉信三の言葉を受けて使用されたと思われる。
要するに自分の周りにイエスマンばかりを配置する人事や、あるいは周囲の人間が気を遣う、忖度する雰囲気にNO!と突き付けたのが小泉信三である。あえて氏は全面講和に反対したのだ。コミュニケーションが大事だ、対話せよを叫ばれる昨今の現状で、周りの様子を窺いながら無難な意思表明をする人は少なくない。むしろ、コミュニケーションしろ!と言われるもんだから仕方なしに「じゃあ、それで」と言えば逃げ切れる雰囲気もあるのではないだろうか。対話するということよりも、対話に備えること、自分で物を考えること、その力こそこれから先必要になってくるのだろう。
インフルエンサーの一挙手一投足に追随したり、仲間内での同調、仕事でも足並みを揃えることに私たちは慣れ切ってしまっていないだろうか。「気が楽」なのはよいのかもしれないけれど、「安きに流れる」ような人にならないように、一旦棚上げする、留保する、そんなことも念頭に置いてもいいんじゃないだろうか。
◆歴史に学ぶ、とたいそれたことをタイトルにしたがどうも内容が伴いませんね。書くとは難しいものです。ちょっとでも言わんとしていることが伝わると嬉しいです。