【将棋の話】板谷一門のこと
プロローグ
2018年に豊島将之棋聖が誕生して以来、愛知県出身の棋士がタイトルを獲得することは珍しくなくなりました。
今ではむしろ複数のタイトルを同時に持つことが当たり前で、さらにその数を増やすことにさえも驚きません。
しかし、それが当たり前ではなかった時期が続いたのも事実です。その歴史を知っている人が、それも棋界の人ではなく一ファンが書き残すことにも意味があると思って書いてみます。
198x年 愛知県名古屋市
1980年代のはじめ。小学生だった筆者は、名古屋市内の将棋まつりで、地元在住の棋士板谷四郎九段による子供むけ指導対局を受けました。
愛知の将棋ファンは、板谷一門には特別な想いを持っています。
あえて姓の板谷を省略して「四郎九段」「進八段」と呼んでいましたが、それは間違いなく親しみを込めている。
筆者も当時のトップ棋士だった進八段に憧れていましたが、引退した四郎九段の指導ならがっかりというわけでもありません。
「もっと強くなって、四郎九段に二枚落ちで勝てるようになったら進八段に教えてもらおう」と、本気で思っていました。
ただし結果的には、進八段に指導をしてもらう機会は来ません。
将棋ファンの間でよく知られているように、棋士板谷進はタイトルに手が届かずに47歳で急逝しました。
かやの木
数年後、筆者は毎週末名古屋駅近くにある学習塾に通うようになりました。
メルサ地下にあった「熊五郎本舗」のラーメンを食べ、ミヤコ地下街にあった将棋道場「かやの木」で2~3局指すことが習慣になります。(地下街の位置は記憶違いがあるかもしれません。)
ある日、その道場にいた大人の一人から、あることを教えられます。奥にいた十代の少年に目を向けて、「あの子は将来プロになる子だよ」と。
筆者より数歳年上のそのお兄さんは、のちに本当にプロ棋士になりました。杉本昌隆八段です。
筆者の計算が間違っていなければ、それは1985年の初めでした。杉本少年は16歳で、奨励会初段あたりの伸び盛りのころです。
狭い道場だったので距離は3-4メートルあったかどうか。手合わせをして頂いたわけではなく、声を聞いたという記憶もありません。
しかし目が合ったという記憶はありますので、おそらく対局中に目礼をして頂いたのだと思われます。
ただこれだけのことなのですが、ただこれだけのことを覚えているということは、やはり筆者には印象的だったのだと思えます。
しかしその杉本八段でも、羽生世代の厚い壁に阻まれてタイトルは取れていません。
202x年
ときが流れました。
あえて厳しい言い方をすると、A級に6期在籍した板谷進八段(追贈で九段)と比べたら、棋士杉本昌隆は同じく八段(2022年7月現在)とはいえ、さらには今後勝ち星を重ねて九段になったとしても、師を越えたとは言えないと思います。
しかし見方を変えて、自身を越える弟子を育成するという意味においては、すでに杉本昌隆は板谷進を越えたのではないか。
(読み方によっては皮肉と受け取られそうなところですが、正しく理解して頂けると信じます。)
愛知県出身といえば冒頭で紹介した豊島九段(2022年7月現在)がいますし、板谷一門と言う場合は石田和雄門下や小林健二門下などにも多くの棋士がいます。
しかし、やはり愛知県出身者にとって板谷一門の中の杉本門下は特別です。
今後のますますの隆盛を、あえて「祈る」ではなく「期待する」と書いて締めさせて頂きます。
追記(2022年9月12日)
ちょうど先日、杉本門下の斎藤裕也さんが奨励会三段リーグを突破してプロ棋士になることが決まったとのこと。
斎藤新四段、おめでとうございます!
エピローグ
最期にひとつクイズです。本記事の裏のテーマは、「"ある人物"の名前を出さずに、全体では"ある人物"のことを意識させる」です。
さて、"ある人物"とは誰でしょう?
もちろん、正解率は100%ですよね!
(正解はハッシュタグの中にあります)