草稿① 自由についての考察 2022/5/04更新
世界は事実の総体であり真実の総体ではない。真実は人の数だけ存在し射影方式により様々な様相を見せるが、事実は論理の命題と同じく同語反復である。『1=1』は論理操作をどれだけ(たとえ無限に)繰り返したとしても、その正確性が保証されるのと同様に、世界に成立する事実は1つだけである。かつてプロタゴラスは人間は万物の尺度であると語った。個々人の価値観は多様であり、それぞれの価値観を持ち、絶対的に確定された真実はないという相対主義を唱えた。だがソフィストよ知っているだろうか、相対主義を正しいと主張すること自体が相対主義を絶対的なものとして押し付けている絶対主義に他ならないということを。
世界のデジタル化は社会的少数者や弱者の存在を炙り出し、その存在が大衆によって認知された。ネットに依存する人々は基底現実での人間との繋がりが減り、自分と世界はあっても、その中間に本来存在するべき他人という存在が介在しない孤立の集合体を産み出した。孤立の集合体は、孤立した存在でありながら自らの個を持たず。ネットを媒介にし、自らの居心地のいいコミュニティに帰属する。コミュニティの思想を盲目に信仰し、それを真実として掲げ。自らのコミュニティの思想に溺れ、他の分野までをも支配できると考える。今まで彼らを縛り付けていた常識や伝統から解放され、共通の価値観を失った彼らが、かつて熱望されていた自由がいったん確保されると、世間への承認欲求という名の同調傾向を示すようになる。価値観の多様性を前提とした自由は皮肉にも無秩序状態をもたらし、大衆の画一化を推し進めた。元来ネットは基底現実でのサブシステムとして機能し、基底現実での地位や性別やコンプレックスといった肉体的デバイスを介さず人々と繋がれるツールとして機能するはずであった。簡易的にネットに自分をアップロードし、他者をダウンロードできる環境は人々に他者との違いを知るのではなく他者と自分を比較し、人々のルサンチマンを助長させ、ネット特融の相互監視社会を産み出した。ネットにおけるパノプティコンの監視者は警察や国家ではなく遍在する一人ひとりの個人となり、監視対象はネットから現実世界にまで到達し、ネットと基底現実との境目を崩し基底現実を侵食するにまで至った。
彼ら孤立の集合体は自らを正当化し、伝統や常識によって抑えられていた様々な諸問題を多様性の名の下に他者に承認させようとし、仮想敵を作り暴走を始めた。今まで目を背け対面しないようにして問題化しないようにしていたものが、ネットを通じ大衆に伝わることにより、人々は目を背けることを許されず諸問題に対して真正面からぶつからざるを得ない状態になり人々の間に軋轢を生んだ。弱者を正当化させようとする風潮は、ますます大衆を弱体化させ、ネットを媒介に増殖していく。彼らは自らのコミュニティに引き籠り、それぞれがそれぞれの都合のいい真実を自由と多様性の名の下に生成している。自らを強化せず、弱者であることを正当化しながら、自らの所属するコミュニティを強化し、コミュニティを介して世間に溢れる真実からその時々に合わせ都合のいい真実を選択し語るだけである。
弱者たる彼らは、弱いが無力ではない。7万年前に突如ホモサピエンスに認知革命が起き、他の類人猿を絶滅させたのと同様に、世界を破壊するだけの脅威を持ち合わせている。彼らはネットであるが故に基底現実に帰属先を持ち、ネットであるが故に孤立した状態で同じ思想を掲げる者同士で集合体となる。彼らの生成する真実は相対主義の名の下に衝突を避け、議論され淘汰されることもなく、ろ過されない不純な真実は世界に蓄積し、世界は事実ではなく真実で飽和する。自由を行使しながらネットと基底現実との境界線は曖昧となり、世界はその歪みに耐えられず緩やかに崩壊する。自由と多様性は最早解放の意味を為さず、新たな支配の形式に成り代わった。
参考文献
論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン全集①草稿 大衆の反逆 自由からの逃走 孤独な群衆 ツァラトゥストラはかく語りき
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