📚 【小説】 登場人物たちの言葉　（ドイツを舞台にした緊迫のスパイ小説 『JADE ～表象のかなたに～』より）

2016年刊行の小説『JADE ～表象のかなたに～』（PHASE シリーズ第二弾）

※本作の概要とプロローグの試し読みは、こちらの記事でご覧いただけます▼

💡この記事は、2016年初版第一刷発行（文芸社）の小説『JADE 〜表象のかなたに〜』の本文から、登場人物たちの科白や回想、印象的なシーン等をピックアップした切り抜き紹介の記事です▼

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●憲玲ケンレイ：

「あなたがまさか、一国の威信や利益のために他国と利権の奪い合いをするような組織に身をおいてきたなんて……。それも政治的都合次第では、時に教団と戦った過去のあなたと同様の、怪物化した勢力に対抗する活動家たちや、どこかの国の人民解放軍を標的に、力を行使しかねない情報機関よ？　もちろん、逆にそういう活動家たちに手を貸して、後押しをする側に回ることもあるでしょうけど。時と場合によって、自国の都合次第でね」


Ｊ（ドイツ連邦情報局BNDの諜報員）：

「期待外れで悪いんだが、現在いまある俺の価値観自体、そもそもが無数の過ちの上に成り立つものだ。さんざん加担してきた身だからこそ、数多の教訓を得てこうなった。軌跡をたどれば、矛盾まみれの人間さ」

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【十数年前の回想】

●Ｊはふと、自分がスカウトされた日のことを思い出していた。最初にＪを訪ねてきた三十代半ばぐらいの勧誘員は、エリート意識の強い鼻につく態度で、こう投げかけてきた。

「私は国家と欧州の治安のために働いている。君のその才覚を、より多くの人々のために活かさないか？」と。

　駅までの近道に当たる公園の中、人通りの少ない場所を通り抜けていくところで、出し抜けに本名で呼び止められたＪは、その言葉に醒め醒めとした表情を浮かべ、逆に勧誘員を問い詰めた。

「 ─── それで？　あんたは今の仕事に満足なのか？　本気で自分が意義ある確かなことのために、陰で人知れず英雄的行為を果たしているとでも？」

　想定外の切り返しに面食らった様子で、勧誘員は一瞬表情を曇らせていた。

「特定の組織における『仕事』というやつは、そこに属する者から選択権を奪い、個々人の意思や倫理観を麻痺まひさせていく側面がある。ましてあんたたちのような陰の政府組織となると、末端実行者たちは、事の本質や大局的な目的を知らされもせず、自分たちが何に加担しているのかさえ わからないまま動くハメになりがちだ。単なるゲームの駒こまの一つとして、知らず知らず方向舵の狂った汚い裏工作に利用されていた、なんてことも度々だろう。
　一方で成し遂げたプラスの活躍分を、片端から相殺そうさいするほどのマイナスへの加担 ───。そんなことの繰り返しで、本当はあんた自身も、自分が何のために今の仕事に就いたのか、何を目指していたのか、忘れかけているんじゃないのか？」

　入局の動機には、単なる怖いもの見たさの好奇心や飽くなき冒険心、能力的適性や生活のためなど、様々なものがあるのだが、端から不明瞭な根拠でその道の仕事を美化し、特権意識に酔い痴れていたような印象がある目の前の勧誘員に向けて、Ｊは更に容赦なく追及した。

「理想と現実のギャップを目の当たりにして、入局当初に抱いていたイメージはとうに崩れたが、せっかく手にした非凡な身分は捨てがたく、今はただ、力を持った大きな歯車のパーツとして、主体性のないエリート意識だけを支えに、騙し騙し惰性で仕事を続けている。実態はそんなところだろう？」

　もはや返す言葉も浮かばない様子で、勧誘員は言われるがままになっていた。

「他人に向けて現実味のない理想論を語る前に、自分の現状をよくよく自覚してから口を開くことだな。あるいは、はじめから素直に言えばいい。『お前も生活手段が必要なら、共に薄汚く国家の犬と化して、他所の国々や良民を食い物にしに行かないか？』とな」

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●にべもなく断られて、一見すんなり身を引いたように見えた当局だったが、彼等はその実、Ｊを諦めてはいなかった。その後一年近くにわたって、綿密にＪの人物調査をし、しぶとく彼の動向を観察し続けていたのだ。

　やがてＪが、多勢に無勢な教団との攻防戦に疲弊し、経済的にも逼迫ひっぱくして、切実に大きな転機を欲するタイミングを見計らって、当局は再び声をかけてきた。我々なら必要なものを与えられる。証人保護さながらに過去を抹消して、教団に突き止められる心配のない別人の人生や架空のＩＤを手配することも、容易にできる。我々にはその力があるのだから、と。

「人間の判断に狂いが生じ、らしからぬ方向に身を落としていくきっかけは、大きく分けて三つある。明日を暮らす金に困ったときと、背中に負った厄介事が許容範囲を超えて、余裕を失くしたとき。そして最後に、受け入れがたい現実に直面して、頑なな拒絶に陥ったときだ」

　Ｊが言った。

「俺が無縁なのは、三つ目だけ。どこかの宗教信者と違って、不都合な事柄にも目を伏せないのが俺の強みだからな。だが明日の生活に必要な稼ぎを得られて、当時の形勢不利な状況を脱することができるなら、あの頃の俺は何でもやった。目に見えて明らかにマズいとわかりきっている釣り針付きの餌でさえ、美味そうだと錯覚するほど切羽詰まって ─── 」

　生き抜くために必要なものを得る代わりに、ついに官憲の手先と化して情報戦の道に踏み入ったＪだったが、表社会のルールにがんじがらめな他の政府機関とは違い、独自のルールで法の裏側をひた走り、禁じ手もいとわない当局のあざといやり方は、彼の気質にピタリとハマり、特注のスーツのような違和感のなさだった。気付けばある時期から、そんな裏社会の血生臭い攻防戦や自分自身のどす黒い人生に、快感を覚えるまでになっていた。

　この薄汚れた世界では、誠実さや良心など、敵に付け入られる弱みでしかなく、恥ずべき未熟さに他ならない。純粋さもまた、敗者の言い訳。大昔から謀はかり合いや殺し合いの歴史を繰り返してきた人類の一員として暮らす以上は、より汚く、より冷酷になるが勝ちだ。

　そんな倒錯した倫理観に生きていた。その種の勝利の先にあるものが、実はミイラになったミイラ取りだけが行きつく魂たましいの無縁墓地なのだとは、知る由もなく。

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●Ｊ：何をどう改め、どんなに足掻こうと、自分のような人間の歩む道に、本当の意味での平穏など永久的に訪れはしないだろう。たとえ今とは異なる真っ当な職業に就いたとしても、同じこと。そういう星の下に生まれついた身なのだ。

　この人生は戦乱そのもの。そして戦乱は混沌。善も悪も、正も誤も、そこではすべての区別が入り乱れて境界を失くし、あとはただ生き残りをかけて、血みどろの殺し合いが続くだけ。

　さながら、凄惨な過去に教訓を得て長らく武力行使を拒んできたというのに、時代の変化に応じて再び他国に派兵するに至った近年のドイツ軍のように、また歴史上共通の歩みを持つ日本の自衛隊が、これからまさに直面しようとしている行く末のように、一旦足を踏み入れたら最後。どこまでやるか、やらないかといった事前のガイドラインなど、生死をかけた混沌の只中では、いかに遵守じゅんしゅ不可能な机上の空論であるかが たちどころに証明されて、誰であろうと手を汚さずには済ませられない。

　はじめから目に見えていたはずなのに、らしくもないことに、Ｊはそうした先々のことを意識しないよう、思考を鈍らせてきた。彼女との今を、終わらせたくなくて。

　─── 一体何をやっているんだ、俺は……。それでも彼女を、手放さないのか？

　自分自身に向けたその問いかけに答える声は、Ｊの中で未だなかった。

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●ヴェルナー（BNDの顧問心理学者で、Ｊにとっては叔父のような存在の友人）：

「我々が感情ある人間という生き物である以上、この世に一人も本音をさらけ出せる相手を持たずにいるのは、かえって危険だ。人というのは、他者との関係性の中で自分を度々再確認し、バランスを保っていくものだからね。どんなに気丈な人間でも、自分独りの絶対性の中で己を保ち続けるのは、至難の業なんだ」

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【いの一番の敵だったソ連崩壊後もなお存続する自組織BNDの現状（2016年当時）についての発言】

●Ｊ：「さながら兵士の末路さ。乱世においては切実に必要とされた見え・・ざる・・凶器・・たちが、責務を果たして目指した平和を手に入れると、途端に白眼視されて居場所を追われるハメになったんだからな。用済みになって尚、その内側に黒い力を保ち続ける危うい存在として」

　話の途中で、憲玲ケンレイの髪が風に吹かれて目にかかるのが見えたので、Ｊは殆ど無意識に手をやり、彼女の髪を整えていた。

「時の革命軍やレジスタンスなんかも、その意味では同じだ。歴史を遡さかのぼれば、独裁政権打倒のために結集した抵抗勢力だったり、民意を代行して立ち上げられた活動家グループだったりしたものが、やがて時代の移ろいの中で役割を失くし、力を持て余した結果、マフィアやネオナチまがいの新たな脅威と化していった、なんていう実例が、世には溢れ返っている」

　日本でＪが招集した地下グループも、Ｊがきっぱりと解散宣言をせず、あのまま留まり続けていたら、同じ一途をたどっていたかもしれない。打倒教団という最大の目的を果たしてしまえば、あとに残るのは、武器としての宙ぶらりんな手段と、存在意義を失くし無法地帯と化した枠組みだけ。そんな枠組みを維持すること自体が目的としてすり替わり、そのために手段を行使し始めたらどうなるかは、明白だ。

「ようするに、結成当初の目的がどうとか、体制側か反体制側か、なんていう区別は大した問題じゃないってことさ。集団的なる力はそれ自体、明確な敵や解決すべき問題を得て初めて需要を得る、一種の武器だ。それだけに、どんな組織もどんな枠組みも、行き着く果ては皆同じ。明日の平穏を脅かす、治世の奸賊かんぞくなのさ」

　醒めた目つきでＪがそう括ると、しばらく黙って耳を傾けていた憲玲が、思わぬ切り返しでこう投げかけてきた。

「でも、だからこそ、何かの組織や集団社会から離れた別な場で、誰かと個人的に血の通った関係を育んでいったり、敵を作らなくてもできる事柄の中から、それまでにはなかった目標を見出したりすることが、大きな意味を持ってくるんじゃない？」

　Ｊの目をじっと見つめて、彼女は続けた。

「あなたの視点がすでにある、あらゆる枠組みの外側で、自分なりの価値を再構築するの。破壊者時代の自分とはまったく異なるカラーで続く道を彩って、気持ちだけでなく実際に。それが本当の意味での乱世の終結、第二の人生に向けての第一歩ってものなんじゃない？　それを見出した人、その変化を受け容れられる人なら、やり直せる。たとえ無力な単独者でも」

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●Ｊ：「憲玲、もし万一、この街を焼け野原に変えたいつかの時代みたいに、ナショナリズムだのイデオロギーだの、集団狂気の戦火が世界中を呑み込んでいくような時代が再来したら、お前はどうする？」

　現に不況の煽りで、自分たちの生活水準が満足できるレベルに達していないと感じている人たちが、移民や外国人など当たりやすい対象に矛先を向けて、その醜い憎悪に国家権力の後押しを期待するような右寄りの傾向が、方々の国々で強まっている。ナチの台頭も、元はと言えばそうした大勢の民意が招いたものだった。何しろ彼等は、れっきとした選挙によって、合法的に伸し上がってきた政党の一例だったのだから。

　それを思うと、一見遠い昔の事柄のように見えて、温床はすでに出来上がっていると言えるだろう。かつての悪夢は、きっかけ一つで明日の現実だ。

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【極右組織のメンバーとのやり取り】

●Ｊ：「第三帝国など、はじめから存在しない。形も得ないまま頓挫とんざして消滅した、多くのユートピアの一つにすぎない」

極右組織のメンバー：「形の有無は問題ではない！　我々は、国家と民族のアイデンティティに関わる重大な問題のために尽力してきたんだ！　それを貴様のような、劣悪な血に毒された他所者よそものの雑種が　───！」

Ｊ：「アイデンティティ……。自分たちとは異なる他のあり方を否定することでしか確認できない、あやふやで相対的な輪郭の話か？　それとも、派手な破壊行為がオリジナリティの証明になると錯覚する、自己満足の稚拙な特別意識のことか？　それと同じような持論を、さも自分たちならではの斬新な意見であるかのように主張する似たり寄ったりな連中は、他にも腐るほどいる。正直言って、俺は聞き飽きた」

　国際社会の干渉で、望むほど政治的影響力を回復できない彼等の、もはや『イデオロギー』とさえ主張できなくなっている現状は、Ｊの目には滑稽こっけいですらあった。

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●スナイパーＸ：「俺に言わせれば、我こそは善良な人間だと思い込んでいる正統派ぶった連中ほど、自分の気に入っている相手や身内以外なら、誰でも平気で犠牲にする。存在価値に優劣をつけて差別化する、その公害的な不平等こそが、人間愛というものの正体なのさ」

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●スナイパーＸ：「俺やお前のように、守ってくれる家族一つ得なかった後ろ盾なき人間は、身内ばかり贔屓ひいきにして他人をクズ扱いする世の恵まれた連中から、ゴミのように扱われてきた身だ。その怒りや鬱憤うっぷんを原動力に変えて、抜きん出た存在になるすべを、師から学んだはず。なのにお前は、この期に及んであっさり足を洗い、かつて俺たちを嘲笑った連中の一員になる道を選んだ。無害を装った害虫どもの一員にな！」

憲玲：どこかで聞いたような話にも思えた。そう、あの・・一件・・の関係者たちに見てきた、世の中への歪んだ嫉妬と敵意、コンプレックスの裏返しである特別意識と選民思想、そして力を誇示するための稚拙な破壊願望……。

　世界のあちこちで暴力任せの騒動を引き起こしてきた恐怖支配の支持者たちも、根っこの部分は同じだ。どんなにもっともらしい主張を掲げていても、結局のところ、自分たちの人生がうまくいかない理由を、都合よくすべて他人や世の中のせいにしたがっているだけ。暴力以外に人に勝るすべがなく、正攻法では誰も振り向かせることができないから、一暴れする好機や、それを美化する聞こえのいい言い訳材料を見つければ、喜んで食いつくのだ。

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●Ｊ：人の歴史は殺し合いの歴史。どの時代にも世界のどこかで戦争があり、大勢の血が流れている。平和的に暮らせる箇所が存在するとすれば、それは誰かの正義の行いがもたらした良心の勝利ではなく、周りに必要とされる『力』の下にできた束の間の安全だ。

　恒久的な平和をもたらす絶対的に正しい一本道など存在せず、また怪物を一人も生み出さずに済む時代などというのも、存在し得ない。どんな国でもどんな人間でも、きっかけ一つで怪物になり得るし、すべての人間が良心に従った選択をして、この世から暴力や戦争を皆無にするなどということは、実現不可能なユートピアなのだ。

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●憲玲：「自分を信じられないなら、私を信じて」

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●憲玲：「何かの身贔屓みびいきな庇護ひごや後ろ盾を得なくても、それを言い訳にせず飄々ひょうひょうと信望を築き上げてきた者同士、唯一無二の存在への敬意で、互いに護り合う道があることを、あなた（＝Ｊ）は行動で示してきた」

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●Ｊ：「どの国、どの民族に属しているかは、俺の判断基準にはなり得ない。当局の狙いがどこにあれ、俺個人にとっては、一人一人が独立したただの人間だ」

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【憲玲との会話の中で】

●ファトス（Ｊの元協力者でアルバニア人）の回想：

「旦那（＝Ｊ）を見ていると、相手がどの国のどんな肌の色をした人物かとか、数ある宗教のうちのどれを信じているか、なんていう色々のことが、どうでもいいちっぽけなことのように思えてくるんでさぁ。長い間ずっと、そういうことに囚われた人たちに振り回されてきたから、あっしは旦那との出会いを機に、何のカテゴライズにも縛られない ただの人になって、生まれ変わろうと決めたんでやす。旦那はそれを理解してくれて、あっし一人では実現できなかった色んなことを、可能にしてくれたんでさぁ。仕事の域をも超えて、最後の最後まで」

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● 麒麟きりん（Ｊの捕らえた中国の工作員）：

「 ─── 今だから打ち明けるが、正直言って、あんたのことは嫌いじゃない。あんたはここの連中とも、他の誰とも違う。少なくとも、国家の犬ってタイプじゃないしな。

　前々から思っていたんだ。あんたほど頭の切れる人間は、孤独だろう？　自分に釣り合う相手など、探せどうは見つからない。優れた技を発揮し、レベルの高い話をすればするほど、それを真に理解する者がいない現実に苛立ち、内心虚しさを募らせてきたはずだ。そしてあるとき覚る。物分かりの悪い足手まといな『身内』より、自分と互角の正確な読みで対抗してくる、手応えのある敵こそが、この世で唯一『友』と呼ぶに相応しい存在かもしれない、とな」

Ｊ：「言っておくが、ここの『身内』は、あんたが思うほど無能じゃない。どうやらあんたの方は、そういう点では恵まれなかったようだがな」

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●憲玲：「ここだけの本音を言えば、私は護ってほしくなんてない。命がけで護られることで愛情の深さを再確認して嬉しくなる、なんていう身勝手な女の心理が、私には全く理解できない。そんなのは、相手のことを本当には愛していない証拠。結局自分が可愛いだけなのよ」

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●ラルス（Ｊの同僚で友人。狙撃の名手）：

「人を愛するのなんて、案外簡単さ。自己満足でも、想いたいように想えばいい。でも誰かに愛されるのは、とても複雑な問題だ。受け止め方を知らない奴等には、尚更のこと」

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●Ｊ：「憲玲、お前は俺を通して、
　帰らぬ人物（黒木）の面影を見ているだけだ」

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●憲玲：「Ｊ、あなた、自分が愛されていないと本気で思っているのね？　自分のような人間は、誰からも真には望まれない。愛されるはずがない。そんな思いが無意識のうちに纏まとわりついて、長い間ずっとあなたの中を支配し続けてきた。そうなんでしょう？」

　触れ合おうとする度に、彼が後ろめたそうな表情を覗かせたり、不自然に歯止めをかけたりするので、憲玲は不思議でならなかった。はじめは単に気遣っているのか、あるいは黒木のことで負い目を感じているからだろうと思っていた。 だが違う。それだけではなかったのだと、今はわかる。 彼はおそらく、憲玲の過去に黒木との接点がなかったとしても、同じような態度を取っただろう。与える愛はあっても愛されることを想定できないせいで、相手が注ぎ込む想いの一切を、現実なはずがないと垂れ流していってしまう。そういう人なのだ。

「私にも同じ経験があるから、わからなくはない。そんな風に感じるのは、あなた自身が、これを見せたら相手が誰でも恐れ慄き軽蔑して、自分から逃げ去ってしまうに違いないと思うような、何かとてつもなく大きな闇を隠し続けているからよ。誰とも分かち合うことなく、自分一人で抱え込んで」

　Ｊの目をじっと見つめて、彼女は続けた。

「だけど私は、黒木にさえ見せずにいたもの、打ち明けられなかったことでも、あなたには洗いざらい見せてきた。生き恥も曝したし、衝突もした。なのにあなたは、何故いつまでも心を閉ざしたまま、自分を曝け出そうとしないの？　頑なに制限をつけて自分で自分を縛りつけ、封印の檻の中に閉じ込めている。そうすることで一番苦しむのは、あなた自身なのに」

　Ｊには何も答えられなかった。鋭利な切れ長の目を見開いて、その場で固まってしまっていた。これまで誰にも踏み入られたためしがなく、特に意識する機会もなかった深部に迫るその指摘に、他ならぬ彼自身、明確な答えを持ち合わせていなかったのだ。

　そんなＪを前に、憲玲はやりきれない思いで頭をもたげた。

「なんてこと……。あなたは本当に、嘘と真実の区別がつかなくなっていたのね。目の前の真実を信じきれずに疑い続け、嘘を言っているつもりで本心の方を口走って。そんなだから、自分自身はおろか他の何者をも、本当の意味で受け止めることができないのよ。愛だの恩だの絆だの、そういう人間くさい不確かなものに対して、受容の器になりきれない」

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●憲玲の回想：

　あれは確か、十代半ば頃のこと。一応首輪はついていたのだが、相当ひどい扱いを受けてきたと見られる、傷まみれの捨て犬を拾って帰ったことがあった。人を寄せ付けない猜疑心さいぎしんに満ちた眼をしていたその犬が、どことなく当時の自分自身と重なって、放っておけなかったのだ。誰にも心を開かず、今にも噛みつきそうな形相で威嚇いかくしてばかりいたけれど、自分となら例外的にうまくやっていけるかもしれない。そう思った。

　だが憲玲は程なく、考えの甘さを思い知らされた。一緒に暮らし始めて二ヶ月が経とうという頃、一見すっかりなついて、通じ合えたものと思っていたその犬を、彼女が何気なく抱き上げようとしたときのことだ。犬は差し伸べられた手を突っぱねて、彼女を拒絶したのだ。冬の寒さに凍えていたので、暖かい屋内に入れてやろうと思ったのだが……。

　その後何度試しても、同じだった。産まれてから一度も抱き締められた経験がないのではないかと思うほど、全く抱き癖のついていないその犬は、どうやっても腕の中に収まってくれず、力の抜き方一つわからない様子で、全身を硬く強張らせていた。

　そんなことを繰り返すうち、犬はやがて、ウンザリしたような顔で憲玲を遠ざけるようになり、果てにはどこかに姿を消してしまった。

　当時は単に、嫌われたのだと思っていた。しかし今振り返ると、あの犬は彼女に愛想を尽かしたわけでもなければ、愛されたくなかったわけでもない。ただ抱かれ方がわからなかったのだ。

　あのウンザリとした目つきも、そんな自分自身に対する失望の表れ。誰よりも孤独で抱擁を必要とする身でありながら、それを得られる環境に身をおくと、うまく馴染めない自分がいる。あまりに想定外な恵みに対して、現実味を感じられない自分に気付かされる。そしてやがて、自分のような者には、あんなにも嫌ったはずの元の世界、屋根もなく荒涼とした独りきりの世界にしか、居場所がないのだという現実を覚る。身体の隅々にまで冷たい外気が染み付いてしまった、永遠の野良犬だ──。

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●ラルス：「どことなく似た者同士だな、君等二人は。仕事や何かでは、一見誰よりも有能で抜け目のないタイプと見られるだろうが、その実プライベートでは、まるで抱き癖のついていない野良犬のように、極めて不器用な愛され、、、下手、、。そういう共通の匂いがするよ、君等二人には」

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●憲玲：「あなたは、愛情に背を向ける演技で危険を回避しようとしているんじゃない。危険を回避するふりをして、愛情から逃げているのよ！　それも、愛され方がわからないという、この上もなく情けない理由のためにね！」

　言いながら、憲玲の脳裏にまた、ラルスの言葉がよぎった。 

『どうやら、君もあいつも、独りでいる年月が長すぎたようだな。……誰かに大事にされること自体に、不慣れで不得手な人種なんだ』と。

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●憲玲：「私を哀れと言ったわね？　勘違いしないで。哀れというのは、あなたのような人間のことを言うのよ！」

　薄い唇を固く結び、強張る顔で静止しているＪの胸元を、憲玲がまた、掴んだ衣服ごとぐいと押した。

「あなたは、人生を生きてすらいない！　闘いの日々に明け暮れて、気付けば心の開き方一つわからなくなっていた、顔も名前もない惨めな人生の喪失者。そしてそんな自分自身の至らなさに耐えかねて、ニセモノで塗り固められた道に舞い戻ろうとしている臆病者。それがあなたという人の実態よ！　なんて哀れな男なの！！」

　かつての自分自身に対する辛辣しんらつさを織り交ぜながら、彼女はそう責めたてた。

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●Ｊ：人というのは、生きていくうちに知らず知らず、多くを失っていくものだ。パターン化された日常生活の摩滅の中での、喜怒哀楽の喪失。周りの大勢に馴染もうと、調子を合わせて暮らすうちに失われていく、元来のバランスやコントロールの喪失。無個性で機械的な役割ばかりが求められる仕事人生における、アイデンティティの喪失。ときに鬼にならねば生きられないような状況下での、良心の喪失……。

　それらの喪失の延長上で、物事のライン引きができなくなった亡者たちが、二心のある権力者に操られたり、似た者同士で群れをなして組織化したりして、公害的な破壊力を発揮することも少なくない。まだそち、、ら側、、ではなかった人たちをも、強引に巻き込んで加担させ、同じ喪失者へと転落させて。

　ヴェルナーは、そうした深刻な自己喪失を防ぐ強力な歯止めになるのが、自分の真の姿を知る身近な者の存在だと語っていた。そういう相手との関係性の中で、繰り返し度々自身の立ち位置を確認し、己を保っていくのだと。

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●Ｊ：ひょっとするとヴェルナーの語った真実の関係というのは、必ずしも『愛』と同義語ではなかったのかもしれない。恋愛であれ家族愛であれ同胞愛であれ、愛はときに身勝手で残酷で排他的で、危なっかしい代物だ。その証拠に、自分たちの選んだ愛すべき対象以外には、権利も価値も認めないような人々こそが、大昔から進んで迫害や侵略や虐殺を行ってきた。一部の限られた相手だけを特別視し、世界の中心におこうとするあまり、他のすべてを蔑さげすんで。

　だが心底から誰かを想い、守りたいという感情さえも経験したことのない者に、確かな主体性や実感をもって他を尊重することができるようになるとは、到底思えない。せいぜい、自分を善人の部類だと思いたいがために、共感力もないまま博愛主義を謳うだけの、サイコパスじみた偽善者になるのが関の山だ。

　そんな薄っぺらな連中の演出する、形ばかりの親切や義務的モラルなど、きっかけ一つでいとも簡単に吹き飛んでしまうだろう。それこそ、世の中の秩序が大きく崩れ、ファシストやテロリストたちが権力を握るような状況におかれれば、何の考えもなしに長いものに巻かれ、平気で加担するに違いない。本心では、そうなるよりずっと以前から人様の存在に重みを感じたことなど一度もなかったのだ、という浅はかな実態を、恥ずかしげもなくあらわにするのだ。

　それを思うと、人の世が平穏を保つのに必要不可欠な、不特定多数の他者に対する『尊重』とは、人一人への深い愛を知って初めて辿り着くことのできる、次段階の『相＝ＰＨＡＳＥフェーズ』、つまり愛の進化型と言えるのかもしれない。


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注）シェア・拡散は歓迎します。ただし、この作品を一部でも引用・転載する場合は、必ず「小説『JADE〜表象のかなたに〜』悠冴紀著より」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように配信・公開するのは、著作権の侵害に当たります！

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