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TOEIC915点をとって私が得たものは、点数じゃなかった

しばらく、これを書こうか書くまいか、迷っていた。

私はマウンティングのようなものが大嫌いだ。自分はこんなに出来るんだぞ、こんなに良いものを手に入れているんだぞ、というような、ネットでも現実の世界でもよくある、マウンティングが。だから、客観的に少しでも「マウンティング」のように受け止められかねないことはあまり書きたくなかったし、そうして優しい読者の方が遠のいてしまうことは、私にとってはとても悲しいことだった。けれど今回は、なんとなく、私にとって大事な出来事だったような気がしていて、やっと脳内の整理がついたので、書き留めておきたいと思った。わかりやすい「達成感」とは、まったく違った感情を。よろしければ、読んでもらえたら嬉しいです。

先月下旬、TOEICを受験した。数日前、ネット上で試験結果が開示され、990点満点のなか、915点だったことが判明した。

心から嬉しかった。
私はいま体調を崩し休職中で、でも療養をしている間でも、何か自分でこつこつと、自分を磨いていたいと思った。ふんわりとしたものだと自分でも何が何だかわからなくなってしまうと思ったので、TOEICというめちゃくちゃわかりやすいものにチャレンジすることを決めた。

働いているころ、海外に関わる仕事をしていたのもあり(といっても職場は東京で、仕事で英語を使うことは実際はほとんどなかった)、職場では「TOEICで900点以上はとれるように」と口酸っぱく言われていた。でも私は、達成できなかった。ずっと私のnoteを読んでくださっている方はご存知の通り、そんなに器用に働けていなかったし、自分に全く余裕がない生活をしていたので、腰を据えて勉強に取り組む、なんてことはできていなかった。

一応受験申し込みをしては「体調が悪くて」とかなんとか言い訳をしながら試験から逃げていた。受験料は、捨てたも同然だった。「なんとか、取り組んでます~!」という上司への意思表明のためだけに払う受験料だった。そんな自分の気持ちとは関係なくしっかりと試験2週間前に家に届く受験票を見つめ、ため息をつきながら、引き出しに眠らせた。手帳に一応書いておいた「TOEIC!!」の文字だけが、虚しく残った。

今回は、誰にも求められていない受験だった。何の用事も入らない日々の中で、なんとなく過ぎていく毎日の中で、自分を磨いている感覚が、欲しかった。点数だって、別に誰かに「●●点を取れ」と言われたわけでもない。休職中の私に「TOEICを受けろ」なんて言ってくる人はいない。ただ、自分の中にずっと残っていた「900点」という呪縛と、「もう一度自分を試してみたい」「自分を諦めたくない」という気持ちで、自分の中で、目標を定めた。TOEICで900点をとること。とてもわかりやすい目標だった。

そこからは、とにかく地味だった。別に一緒に同じ目標を目指して頑張る同志がいるわけでもない。誰かが英語を教えてくれるわけでもない。「ねぇ、TOEICの勉強してる?まじだるいよね~」と話せる相手もいない。私の目の前にあるのは、ほとんど真っ白なカレンダーと、TOEIC受験申込完了メールだけだった。

ちなみに直近のTOEICの点数は、2018年7月に受験した、655点だった。既に体調は悪い中働いていて、でも何となく「行かなきゃ」と思って行った試験会場。もちろん、勉強なんてしていない。試験会場がどこだったかすら覚えていないけれど、「あぁ、なんでこんなの受けてるんだろ」と試験時間中に思ったことだけは、覚えている。就職活動前に、自己PR用にと勉強し、800点くらいの点数を取ったことはあったけれど、もう8年も前のこと。しかもバリバリ学生現役時代。本来語学は好きだったし、英語の素地がまったくないとは思わないけれど、900点はさすがに、我ながら無謀かもなぁ、とも思っていた。

「予定がない」ということは、結構怖い。毎日「何をするか」を、自分で決めなければならない。朝から晩まで、全てが自分に託されている。自分の意思だけで、動くのだ。もちろん療養中の身だからありがたい話なのだけれど、それでも、怖いものは怖い。誰も教えてくれない。アドバイスもくれない。自分で、考えるしかない。

なんとなく、「TOEIC 900点」でググったりした。何から手をつけようか。「公式問題集」を解くことがスタンダードらしかったから、それに従うことにした。「やってみる」以外の道筋が、見つからない。試験までは、2ヶ月くらいだった。模試が2つずつ収録されている公式問題集を3冊、amazonで買った。あとは、とにかくよく売れているらしいTEX加藤さんの「金のフレーズ」という単語帳。ノートと、ペンと、蛍光マーカー。辞書は、以前iPhoneで購入していたウィズダムの辞書アプリを使うことにした。

あとは、とにかく毎日勉強するだけだった。問題を解く。答え合わせをする。わからない単語を調べる。ノートに書きまくって覚える。音読をする。ディクテーションをする。問題を解く。答え合わせをする。その繰り返し。正しい勉強方法も、効率の良いやり方も、何もわからなかった。誰も教えてくれない。だから愚直に、やるしかなかった。孤独だった。毎日、毎日、勉強した。

ある夜、爆発した。お風呂に入りながら、涙が止まらなくなった。全て、自分で決めたこと。自分を磨きたくて英語を勉強することを決めたのも、ずっと逃げ続けたTOEICを受けてみようと思ったことも、目標水準を敢えて高めに設定したことも。それでも、孤独感は拭えなかった。誰かに「やれ」と言われてやっているものでもなんでもない。今私が辞めたって、誰も何にも気づかない。誰も責めてこない。だから、愚痴なんて生まれるはずがない。なのになんで、こんなにも孤独なんだろうか。「もう疲れた」という言葉しか出てこなくなり、泣いた。

一瞬でもいいから、毎日勉強しなければ、と思っていた。どうしても、自分にだけは負けたくなかった。自分で決めた目標を、達成したかった。自分を諦めたくなかった。友人とご飯を食べる日も、気分が乗らない日も、絶対に勉強した。そうやって、自分で自分を勝手に追い込む性格を、これでもかというほど、思い知った。そして、そんな自分のストイックな性格が体調を崩させたのだということにも、気が付いた。

そこから、2日間くらいだっただろうか。毎日勉強していた自分を、休ませることにした。私の様子に気付いた母が「根詰めすぎや」と、休んだ方が良いと言ってくれたから。正直、不安だった。昔、楽器をやっていたころの「一日休んだら、三日後退する」っていう言葉が、頭の中でチラつく。あぁ、一日でもやらなかったら、それまでの三日間の努力が無駄になるのかもしれないなぁ、と。いろいろ思ったけれど、自分を壊すわけにはいかない。もうパンパンだった頭と心を、緩ませた。

そこからはちゃんと気持ちを取り戻し、勉強を再開した。試験まで、毎日勉強した。着々と、コツコツと、とにかく地味に。勉強した。毎日。毎日。

試験当日をあんなに丁寧に迎えたのも、大学受験以来だった。数日前には証明写真を撮り終え、受験に必要な筆記用具を揃え、時計がしっかり動くか確認して。当日は、あまり緊張することなく迎えることができた。試験が終わったあと、あぁ、あそこの問題、間違ったかも、とか、あの単語で合ってたっけな、とか、いろいろ考えて辞書で答え合わせをしたりした。思えば、とても真摯に、向き合っていた。真摯だった。そして、結果は、正直思ってもみなかった、915点だった。自分で決めた、自分のためだけの目標を、クリアした。

結果がわかったとき、泣いた。「あぁ、努力していれば、報われる瞬間って、あるんだ」と思った。病気と休職という、自信が粉々に崩れるような挫折を味わったあとだったから、より一層そう思った。そして、ひとしきり喜んだあとに思ったのは「私、頑張ってたんだなぁ」ということだった。

昔から周囲に「頑張り屋さんだね」「頑張りすぎ」と言われ続けてきた。でも、正直言うと、その意味がいまいちよくわかっていなかった。「努力しなければ、自分の望むものなんて、手に入るわけがない」と、ずーっとそう思って、生きてきた。いや、今でもそう思っている。それくらい、ナチュラルボーンに、ストイックな性格なのだ。だから、1日の緩みが、一瞬の甘えが、自分を理想から遠ざける。だから1日も休んじゃいけないんだ。そうやって自分を追い込むことが、あまりに自分にとって、自然なことだった。

でも、今回私は、辛くて「もう疲れた」と崩れ落ちた日から、2日間休んだ。勉強をしなかった。努力をやめた。それでも、結果は出た。

これが、ものすごい気付きだった。別に、2日間休んだからといって、それまでの努力が粉になって消えてなくなってしまうわけじゃないんだ。なかったことになんてならないんだ。だから、疲れたときは、安心して、休んだっていいんだ。初めて、そう思うことができた。そう思えるようになるまでに、30年もかかった。

昔から、お金に困ったことはなかったし、学校にもちゃんと行かせてもらったし、人並みに悩みやコンプレックスはあれど、端からみたら、ちゃんと学校にも行って大学にも進学してちゃんとした会社に入って。「さえは、人生イージーモードじゃん」って言われることもよくあった。そうか、私って恵まれてるんだなぁ、とずっと思っていた。これって「イージーモード」なんだ、って、思うようになった。

でもたぶん、ほんとにたぶんだけど、イージーモードでもなんでもないと思う。たしかに、恵まれていると思う。環境としては。運がいいかどうかは、わからないし、知らない。でも、人はみんな、持てるカードで生きていかなければいけない。私はズルせず、持てるカードだけを使って。それでもちゃんと、努力して生きてきたんだよ、って思う。別にイージーなんかじゃなかった。今なら、そう思う。

たぶん915点をくれたのは、努力をみててくれた神様でも運でもなくて、自分だ。なんていうか、これはおごりでも図々しさでもなんでもなく、そう思わなくては、誰が自分を労わってあげるのだろうか、と思った。別に、もしかしたら、神様が与えてくれたのかもしれない。「大変なことがあったから、これくらいのご褒美はあげるね」って。でも、そう思ってやっていったら、誰が自分のことを褒めてくれるんだろうか。自分しか知らない努力を、誰が抱きしめて、「よく頑張った。君の頑張りが、結果になったんだよ」って言ってくれるんだろうか。それを怠ることって、自分を大切に出来ていない。自分を認めることになっていない。

2日間休んでも、足を止めても、それまでの努力が消えてなくなることなんて、なかった。誠実に取り組めば、結果は出る。「イージーモード」「運がよかった」「神様からのご褒美」なんて言葉で、自分の努力を閉じ込めちゃいけない。もっと、自分を信じていい。

きっと、私のストイックな性格が根本的に変わることはないんだろうな、と思う。性格なんて、なかなか変えられない。それに、この性格で得られたものも、たくさんある。でも、「自分が思っているより、自分は頑張りすぎてしまう」ことや、「少しくらい休んだって、積み上げた努力がゼロになることなんてない」ことや、「自分が評価している自分の頑張りと、客観的な評価には大きな乖離があること(自分を低く見積もりすぎてしまうこと)」は、今回のことでとてもよく理解することができた。これに気付けたのは、本当に大きかったと思う。私が欲しい強さは、ガッチガチに固めた鎧のような強さではなくて、曲がりたいときにゆるやかに曲がることのできる、しなやかな強さだ。少しばかり、その「しなやかさ」に近づけた気がする。

本当は、テストが上手くいったら、柄にもなく「TOEICの点数を2ヶ月で●●点アップさせる方法」なんて書こうとも思った。でも終えてみたら、それは全く重要なことではなくて、自分が書きたいことではなかったから、やめた。

TOEICの点数というわかりやすい成果を得たけれど、それ以上に、過程で感じた孤独感や、そこで気付いた自分の根本的な性格、会得したしなやかさは、点数以上の収穫だった。それを書き留めておきたくて、このことを書いた。

やっぱり、話せるようになりたい。英語が。それは何かに役立てるとかではないかもしれないけれど、こうして日々文章を書き綴るものとして、別の言語で自分の言葉を話せたらどんなに世界が広がるだろうか、とワクワクする。TOEICの点数というわかりやすいものを追いかけるのは、もう終わりにする。でも、英語は続けようと思う。楽しみたいから。もっともっと、表現者になりたいから。
がんばって、疲れたらときどき休んで。そうやって、しなやかに自分らしく、進むぞ。

Sae

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