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【夢日記】<下>無名の僕とインフルエンサーの知り合いでコラボ配信してみた

※「上」


後日、僕は、生放送のアーカイブ動画をチェックしてみた。

ココにおいても、僕の中では、「配信するの知ってたらリアルタイムで見に行ってたのに~!」といった具合に、”数字を持っているインフルエンサー”ならではのコメント”、が付いたりするものなのかしら・・・、と思っていたのだが、再生数やコメント数を確認してみた限りでは、特段、「バズった」感じもなかった。

次に気になったのは、「コイツ(僕のこと)誰なのよ?」といった「底辺」が「インフルエンサー」にたかって、おこぼれにあずかろうとする、いわゆる、「コバンザメ商法」を非難批判するコメントが殺到してはいないだろうか、という懸念だった。

ただ、それに関しても、アーカイブ動画に、僕のことに言及しているコメントは、無いわけでも無かったが、罵声を浴びせる感じでもなく、かといって、好意的な感じでもなく、言ってしまえば「あぁ、リアルで付き合いがある人なんだね~」「へえ、その人もネットで活動してるんだ~」ぐらいの、うす~いリアクションが、ほとんどであった。

一応、僕が発信しているSNSもチェックしてみたのだが、知り合いと生配信をする前と、良くも悪くも、変わっていないようだった。フォロワー数が格段と伸びたわけでもなければ、誹謗中傷はおろか、非難批判のコメントすら、全く来ていなかった。

”数字を持っているインフルエンサーならではのコメント”

この表現は「コンテンツ」ではなく「ヒト」目的で視聴することを指している。コレが行き過ぎると「信者」と揶揄される風潮があると僕は解釈しているのだが、そういう用法が定着するのが、ある意味日本らしいのかな、とも僕は感じている。

僕は「信者」をネガティブワードとして用いた覚えが無いため、どういう思考回路でそういった使い方をしているのか、思いを巡らすことしか出来ないのだけれども、彼・彼女は、特定の宗教を信仰している人もまた、ネガティブな印象をもっていたりするのだろうか。それとも何も考えておらず「みんなが使っているから僕(私)も使おう」ぐらいの軽いノリなのだろうか。

おそらく、僕の見立てとしては、後者の方がかなり多いのではないか、と考えている。良くも悪くも、何も考えず、ポンと使っているような気がする。入れ込み過ぎて周りに危害を加えていると判断出来た過熱なファンに対して。

さらに言えば、「入れ込み過ぎて」とか「周りに危害を加えている」という感覚もまた、個々人のサジ加減一つでいかようにも変わるものだったりする。

ゆえに、僕からすると、「信者」という言葉選びをすること自体が気に掛かるだけでなく、”何をもってこの人は信者とみなしているのか?”、ということにも気に掛かってしまうわけだ。

この「二重のモヤモヤ」を抱えてしまうと、会話のキャッチボールを円滑に行うことが難しくなってしまうので、結果的に、「信者」という言葉を使って、(その人にとっては「周りに危害を加えるやつら」として認定された)特定のファンを罵る人とは、あまり交流を持たないようにしている。

注釈

なぜ僕が「信者」という言葉に、ここまで敏感に反応してしまうのかは、明確な理由がある。それは、僕が卒業した大学が「佛教大学」だからだ。

はじめに断っておくが、僕は、特定の宗教を信仰しているわけでもなければ、家柄的にも「無宗教」に属すると思われるし、そういった話は全くと言って良いほど話題に上がらない、要するに「無関心」と言った方がより現実に即していると思われる。

僕が佛教大学に進学したのは、

1.高校生の頃に学校の先生(専門科目は社会)になりたいという夢が出来た
2.高校の社会科の教員が佛教大学OBだった
3.佛教大学は教育分野に強い大学だという情報を得た
4.将来のビジョンが『教師』で明確に決まってるなら『関関同立・産近甲龍』と大差無い佛教大学がオススメだ

※「関関同立」は、関東で言う「MARCH」で、「産近甲龍」は、関東で言う「日東駒専」と同じような括りだと思ってもらえれば、概ね間違いではない。関東と関西で知名度が全く異なるので、一応、補足しておく。なお、「だけどこの学部は~」などといった例外のケースを、ココでわざわざ触れる必要はないと判断し、詳細は割愛する。

以上、4点の理由から、佛教大学進学を目指し、無事、大学に入学することが出来たのだけれども、「大学どこなん?」といった話になって、「京都にある佛教大学というところに通っている(いた)」と返すと、

「えっ、家って、『そういう系』なん・・・?」

という、リアクションをされることが多かったからだ。

余談

”そういう系”

僕は、この表現が、好きじゃない。

そういった、腫れ物に触るような返しをするのであれば、「仏教と深い関わりがあるの?」と、ストレートに聞けば良いのに、と思う。だったら僕も、いや、こんな理由があって佛教大学に進学することになったんだと、端的に説明することが出来る。

おそらく、相手からすると、”あまり踏み込んではいけない”、という観念が働いて、”そういう系”、といった言い回しになるのであろう。そういう意味では「悪意」ではなく、むしろ「善意」に近いとすら言える。とはいえ、見方を変えれば、”面倒事に巻き込まれたくない”、という「自己防衛」とも受け取れるのだが。

ただ、コミュニケーション能力をアップさせることを謳った書籍などに目を通すと、”宗教に関する話題は雑談ネタとしてはNGなので避けましょう”、というのが、基本中の基本として書かれていたりすることもまた事実だ。それにのっとった受け答えであれば、何も責められる所以(ゆえん)は無いとも言えよう。

・・・といった具合に、”そういう系”、という言葉一つだけを切り取っても、色んな感情が喚起されてしまって、キャパオーバーになってしまうので、僕は、”とにかく一刻も早くこの会話を打ち切りたい”、という気持ちで一杯になって、ただ一言、

「いや、”そういう系”、ではないよ(苦笑)」

とだけ、返すのであった。

余談は続くよどこまでも

「あぁ、単に、僕の、考え過ぎだったんだなぁ・・・。」

僕は、無名であるがゆえに、インフルエンサーの数字を「過大評価・過剰反応」していたことに気付いて、一人、苦笑していた。

その時、知り合いのツイートが、目に入って来た。

「【祝】YouTubeサブch登録者数10万人突破!」

それを見た僕は「あれっ?」と思って、僕のTwitter(Xと呼べば良いのだが、当分、慣れる気配が無い。たぶん夢の世界もTwitterだたt気がする。なのでTwitterで通すことにしよう)ではなく、知り合いのTwitterを、ちょろっと覗いてみることにした。

すると、YouTubeのコラボ配信のアーカイブ動画とは比べ物にならない数のリプライが、知り合い宛てに届いていることが分かった。

その内容は、

「無名の友達に手を差し伸べる優しさが神(*'ω'*)」

・・・まぁ、大体、こんなものばかりだった。

「信者」というワードに過剰反応した僕なのだから、当然、「神」というワードにも、色々、思うところはあるのだけれども、強調表現に関しては、挙げればキリが無いほどに、多様な語彙が当てられているため、あまり気にならなくなってきたのが実情である。

「激おこぷんぷん丸」とか「ムカ着火ファイヤー」なんて言われ出す始末なのだから。もう何でもアリではないか。今ではもう、達観の境地で、面白がっているフシすらある。

自分でも嫌になるぐらい、小難しい性分の僕だけれども、僕と全く異なった人種と思われる方々の思考回路は、僕の想像が及ばないところから、インパクトのある語彙が生まれたりするので、そういう意味では、楽しいし、学びにもなる。

注釈

僕への非難批判と思われるコメントは無かったが、とにかく、知り合いを褒め称えるコメントで、溢れていた。

それはそれで、平和なことだとも、思った。

僕は、そっと、知り合いのTwitterを閉じた。

目も閉じて、いつもの、沈思黙考をはじめた。

「(自分だけに利が有るコラボ配信だと思ってたのが)」
「(フタを開けてみれば知り合いだけ利が有ったのか)」
「(知り合いの数字を利用したと罵倒されるのを恐れ)」
「(取り越し苦労というのか、なんというのか・・・)」

思い耽っているところで、目が覚めた。


”取り越し苦労”

僕は、この体験をすることが非常に多いタチであると自覚している。おそらく、世間一般の物差しで見れば「悪癖」に分類されるのであろう。ただ、自己弁解と受け取ってもらっても良いのだが、僕自身は、悪癖だとは認識していない。

例えば、「防衛的悲観主義」という言葉を当てれば、事前に、自身にとってマイナスの状況を想定して、それを避けるためにはどうすれば良いのかと、用意周到に準備を行なうことにも繋がる。その結果、「ベストはA、ベターはB、バッドはC、ワーストはD」といった具合に、詰め将棋的な感じで、パズルにピースをはめていけるわけだ。

「そんなの詭弁じゃないか!」と思われる方にとっては、単なる言葉遊びとして受け取ってもらって構わない。実際、僕だって、そう思う時もある。言い方を変えれば、”こうでもしないと自分で自分を守ってあげられないじゃないか”、という、セルフコンパッション的な意味合いも含まれている気がする。

”前後裁断”

こんな言葉もある。「過去を悔やまず、未来を憂わず、今に集中せよ」といったところか。全くもって、その通りだと思う。しかし、自身の思考を俯瞰してみれば、面白いぐらいに、出来ていない。これほどまでに「言うは易く、行うは難し」という言葉がピタリとはまることも無いんじゃないか、というぐらいに。

以上のことから分かるように、僕は、言葉に関心が強いあまり、言葉の持つ意味に振り回されるきらいがある。これが行き過ぎると、言葉から伝わる情報を処理し切れず、パンク状態となってしまう。「本を読んでいるんだけど文字を目で追っているだけで言葉の意味が頭に入ってこない」と形容すれば、イメージ出来る人も割と多いのではないだろうか。

”文字を目で追っているだけの状態”

あまり好ましくない精神状態だと言えるが、コレもまた、見方を変えれば、セルフチェックに役立つとも言える。

「あぁ、今の俺、情報量が多過ぎて処理し切れていないんだな」と捉えることで、むやみに自分を責めないで済むだけでなく、情報過多の現代社会には欠かせない「デジタルデトックス」を行なうための重要なサインにも成り得るのだ。

注釈&余談

【ポエム】

なんだかんだと書いて来たが、僕が言いたかったことは、たった一つ、”最近、自分の中で納得する文章を紡げていない気がする”、ということだけなのだ。

物書きを生業にしている人のインタビューを読んでいると「どんなことがあっても『書く』ことだけはやめなかった」という話を、沢山、目にして来たように思う。

noteの「つぶやき」で「今日は体調がすぐれません」などと書いて「毎日投稿バッジ」が継続させて「よしよし、偉いぞ」と自らを褒めて終わらせなかった自分を、褒めてやりたい。

僕は、毎日投稿バッジのために、文章を綴っているのではない。

僕は、物書きの、端くれの端くれの端くれでも構わないから、長期的に文章を執筆することが出来る人間になるために、文章を綴っているのだ。

人間は、苦境に立たされた時にこそ、本性があらわれる。


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