あえて無駄な時間を過ごしてみる
どれだけ考えても答えが出ない問いを考えるのが好きだ。朝から晩まで同じ問いについて考える日もある。そんな日はどこか上の空で、誰かの問いかけに対しても空返事になる場合が多い。申し訳ない気持ちはある。だが、問いに対する答えを出したくてたまらないのだ。答えが出ないくせに考えるあの時間は史上最大の無駄なような気がして愛しさすら込み上げる。
例えば人生の正解についてだ。人生に正解はないのに、どう生きれば正解なのかをずっと模索し続けている。逆の発想でどう生きれば間違いなのかを考える場合もある。これまでの選択が全部正解だったとは口が裂けても言えない。正しかったのはほんの一握りで、ほとんどの選択を間違い続けてきた。それでも今の自分があるのは過去のおかげである。そう考えると自分のためにも、たとえ間違いだったとしても全ての選択が間違っていたとは思いたくない。
自己防衛本能による正しさのすり替えは、時に薬となったり、毒となったりする。人生とは点号に行くまでの暇つぶしである。誰かによって与えられた時間をどれだけ有意義なものにできるかが納得率の高さに繋がる。仕事ではずっと効率ばかり求めている。非効率なやり方は全て変えたくなってしまう。だが、プライベートでは無駄を楽しむをモットーに生きている。人生は暇つぶしだ。どんなものを掴もうとも墓場には持って行けない。人は忘れられたときに2度目の死を迎えるらしい。そう考えるとずっと忘れられることなく、語り継がれる歴史の教科書に載っている人たちは実に偉大な人だったのだろう。
彼らに比べると自身はあっという間に2度目の死を迎えるに違いない。歴史的な何かを起こす気配は一切ないし、そのための才能が枯渇しているのも嫌というほどに理解しているつもりだ。生きたか証を残すために生きている。いや、死後の世界などどうでもいいし、気になったところで見ることができないのがオチだ。
文章に正しい型はあれど、正しい内容はない。この場では好き勝手に書いていいし、止められたとしてもこのタイピングが止まる理由にはならない。今日もこんな誰のためにもならないただの駄作を生み出すために貴重な時間を見事に潰した。これがもしも仕事だったら、僕は僕を絶対に許さない。だが、noteの毎日更新はプライベートで続けているものなので、正解不正解などどうでもいいし、そこに理由を求めるのはお粗末だ。人生を好きなように生きればいいのと同じで、この場では書きたいことを書く。それでいい。その方がいい。たとえ誰にも届かなくとも、数年後にこの文章を読んだ自分が無駄なことを書いているなと笑い飛ばしてくれるはずだ。
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