見出し画像

難病なんて映画かドラマだけの話だと思っていた

ぼくは、病気を飼っている。 少し気まぐれで、時折機嫌を損ねるから少々厄介だ。体の節々が痛くなり、目が霞んでうまく前が見えない日もある。

 ベーチェット病。ずっと昔から自分の中にいたわけではない。ある日、不意にやってきて、それからずっと一緒にいるようになった。

 家から十分ほど歩いたところにある小さなカフェで、仕事をしながら珈琲を飲むのが好きだ。窓際の席に座り、パソコンのキーボードを叩く。仕事の合間にぼーっと外を眺める。ベーチェット病を発症してから、こういう穏やかな時間がますます愛おしくなった。周りには「幸せのハードルが低いね」と笑われたこともあるけれど、辛いよりも楽しい方がいいと考えているため、今の自分の感覚を気に入っている。

 最初は些細な違和感だった。過労で倒れ、その日は家でゆっくりと休んだ。日に日に目の中に違和感が現れた。疲れがとれず、関節が痛む。おかしいなと思いながらも、仕事を休めるわけもなく、淡々と仕事と向き合っていた。

 けれど、ある朝、まぶたを開けると何も見えなくなっていた。顕微鏡の微生物のようなものが目を覆い尽くしている。物体の隙間からかろうじて景色が見えたのだけれど、もうこれは無理だと諦めて街の小さな病院に足を運んだ。医師から「ここでは診断ができない」と言われ、タクシーの乗って大きな病院へ。半日ほど時間をかけて全身の検査を受け、医師は深刻な顔つきで言葉を選びながら「ベーチェット病ですね」と告げた。

 最初は何を言っているのかがわからなかった。何度も聞き返してみても、言っている言葉の意味がわからない。「指定難病です」という言葉を理解できた瞬間に、自分の中で何かが音もなく崩れた。

 それからの日々は、病気と付き合うことに費やされた。毎日目薬を手放さず持っている。失ったものと共存しながら生きていくのは、思った以上に難しい。存在していた頃の生活が恋しくて仕方がないのだけれど、どれだけ願っても失ったものは返ってこないのだ。難病と向き合う中で、調子の良い日もあれば、立ち上がることすら億劫な日もある。以前までの生活はできなくなってしまったのだけれど、それは決して不幸なことではないと思いたい。

 難病を発症してから、世界が少しだけ違って見えるようになった。毎朝目が覚めた瞬間に幸せを感じられるようになったし、足を止めて空を見ることが増えた。道端に咲く小さな花に目を留めたり、風の音に耳を傾けたりすることが、私の時間を豊かにしてくれるようになった。

 自分の中で一番の変化は無理をしないことを覚えたことだ。働きすぎないようになったし、ほんの少しずつだけど助けて欲しいと言えるようにもなってきた。昔から誰かに頼るのは苦手だった。でも、難病を発症し、一人で生活ができなくなって、ようやく誰かを頼る術を覚えた。

 ある日、カフェでぼんやりとしていたとき、ふと「自分の価値って何だろう」と考えた。難病を発症し、できないことも増えた。昔の自分と今の自分は違う。それなのに、ぼくはまだ人生を楽しみたいと願っている。じゃあ、自分の価値とは、何が変わって、何が変わらないのだろう。答えはわからない。でも、もしかしたら価値なんて、特別なものじゃないのかもしれない。

 朝、目が覚めること。 おいしいものを食べること。誰かと笑い合うこと。時に悔しさで涙を流したり、誰かと喧嘩をしたり。そういうささやかなことを繰り返していくことが、生きることなのかもしれない。ぼくは、病気とともに生きていく。たぶん、これからもずっとその事実からは逃れられないのだろう。それでも、今日の午後の時間は、穏やかで優しい。ただそれだけのことがなんだかとても嬉しかった。

いいなと思ったら応援しよう!

サトウリョウタ@毎日更新の人
ありがとうございます٩( 'ω' )و活動資金に充てさせて頂きます!あなたに良いことがありますように!